東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

日曜日の授業について

2018-09-29 15:34:24 | 学習・塾に関する中身
明日の授業に関しては全員にお手紙をお渡ししていますので、ご確認をお願いいたします。

原則として、授業は休講です。

台風により、試験日程が変更になった場合は、対応のご連絡をいたしますので、こちらもよろしくお願いいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教え子の持ち帰る成績と、教える側の手ごたえの乖離が

2018-09-27 00:06:44 | 学習・塾に関する中身
 最近特に大きくなってきていると感じます。

 たとえば、私の教え子でいえば、メンバーの平均点が定期考査でも実力テストでも80点以上上回っている学年があります(し、ありました)。

 そうした生徒は、もちろん成績に呼応した通知票を持ち帰ってくれるので、素点と通知票の評定でいえば、世間一般で偏差値60前後の高校を標準とした進路を選択することになります。現実的に実際に進学をしてくれていますし、外部の模擬試験(五木)でもだいたい妥当な成績を持ち帰っているんですよ。
 
 でも、私が指導している手ごたえで言うと「そんなに偏差値あるかなあ?」という感覚になってしまうのです。もちろん自慢の教え子ですし、必死に努力してくれていることに文句はないのですが、学力の背後にある「学力で涵養されない力」が足りていないような気がするんですよね。

 私がよく教え子に言うのが「今ここにタイムマシンがあったとして、君たちを先生の子供のときに連れて行ったら、たぶんメンバーの平均点は学年平均を少し上回ったらいいくらいだと思うよ」というフレーズです。

 別にベビーブーム世代の自慢ではなくて、純粋にそう感じているんです。この危機感はおよそ10年位前から感じていました。とにかくそろばん学習者と、中学生の塾から入学してきた生徒の学力以前のレベルが違いすぎていたんですよね。そんなことから、約10年前に「塾指導は原則としてそろばん学習者に限定する」という方針にしたんですよね。

 で、そろばんの授業の中に漢字指導や暗誦指導。都道府県名を漢字で書かせたり、毎日の過程学習を課してみたりと、あらゆる試みを始めました。特に暗誦は「夏休みチャレンジ」のカテゴリーに詳しいのでそちらをご参照いただくとして、本当に高学年は難しいと思います。大して意味は分からないのだろうと思っていました。

 なぜこうしたのかという想いはあっても、「この教育は教育学的に正しいのだろうか?」とずっとひっかかるものがありました。でもかの有名な外山 滋比古(とやましげひこ)先生:言語学者 の本を読んでこのもやもやが解決されました。

 ものを読むときの読み方には、既知の知識をなぞらえて読む読み方と、未知の知識を読む読み方がある。そして日本の言語教育は「未知の知識を読む」読み方の指導をしていない。昔は「四書五経」をただ単に読む「素読」というのがあって、これが「未知の知識を読む読み方」に相当する。これこそが言語能力を鍛えるのに最適なものであると。

 まさに、私がおぼろげに考えていたことが、すごく明確に書かれていました。自分の既知の知識では太刀打ちできないレベルのことに挑戦してほしい。そして「できる自分」に出会って欲しいという考えの裏にあるものがすごくストンと理解できました。

 この考え方は、私がブログで再三書いてきた「既知の知識の組み合わせで未知の現象に立ち向かう」ために必要なことでもあると再認識しました。

 で、こうしたことにそろばんの授業で挑戦してもらっているから、私の教え子は比較的良い成績を収めているのだと納得しました。

 私の幼少期には、こうしたことを当たり前に指導してくれた先生がいたなあと。こうしたことを小学校低学年くらいのときにきちんと指導される経験が少ないことが、イマイチ私がしっくりとこないことの遠因でもあるんだろうなと思いました。ということは、ここをもっともっとしっかりと教えていくことで、さらなる教え子の伸びが期待できるのかなと思います。でも今でもしっかりと頑張ってくれているので、これ以上するべきことを増やすのもなあ。なんていう思いもあったりしますね。まあ、ゆっくりと考えていこうと思います。

 そろばんの学習を通して圧倒的な下地を作っていくことができる。なんだかワクワクしますね。ただ単にお勉強の学力を上げるだけではなくて、様々な角度から子供たちの能力を底上げできるようにまだまだ精進ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然災害

2018-09-25 15:53:51 | 日記
 広島県を中心に町が水没するような大変な豪雨がありました。

 台風が日本全体に大きな被害をもたらしました。

 北海道で最大震度7の地震が起きました。

 私たち人間は自然災害の前には極めて無力です。私たち人間ごときの科学力で自然災害に立ち向かうなどという考えはおこがましい限りです。

 しかしながら、自然災害の発生原因とその被害について詳しく知ることが可能であれば、あらかじめ災害に備えることができます。

 そして起こりうる被害を最小限に食い止めることができます。この考え方を「減災」といいます。

 私たちに人間には「叡智」があります。連綿と受け継いできた「叡智」は私たち大人世代が、次の世代を担う子供たちに伝えていかねばなりません。

 私たちはそんな大切なことをきちんとできているのでしょうか? きちんと「叡智」を伝えながら、「減災」に取り組んでいるでしょうか?

 私はそろばん指導や、塾でのお勉強の指導を通してこうしたことを考えていくその下地の力を伝えています。

 努力することはもちろん、自分自身で思考することの大切さを伝えるべく日々子供たちと向き合っています。。

 これは効率を追い求めるお勉強ではなかなか身に付かない能力の1つです。

 大学生を実際に指導していたとき、進学塾出身者はとにかく正解を求めようとする。そうでない者は正解にたどり着くための方法をあれこれ考える。という現実を目の当たりにしました。「お勉強ができる」ことは、「お勉強ができる」以上の意味を持たない場合があるのです。

 「お勉強」を通して、物事を客観ししたり俯瞰したりすることができる力を身につけることもできます。ただ「お勉強ができるだけ」に育つこともできます。私は、私の教え子たちが前者のような大人に育って欲しいのです。

 大学生のときは、もしかしたら地震予知の1つの方法に結びつくかもしれないという研究をしました。しかしながら、自然現象はそんなに単純化できるものではありませんでした。そんな研究の最中に阪神大震災が起こりました。自然にの力をまざまざと見せ付けられて、何もできない自分に途方にくれました。でも私は「この方法ではできない」という結論まではたどり着きました。
 今、日本を次々と襲っている自然災害に対して、われわれは極めて無力です。しかしながら、私たちの次の世代がその解決方法を1つでも見つけてくれるやも知れません。そのための力に少しでもなってほしい。だから私は今日も教え子に伝え続けます。自分自身で考えることの大切さを。

 そして次世代の子供たちが何かを見つけてくれると信じて。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「高校入試は通過点、大学入試を目標に置く」という考えは私にはありません

2018-09-24 00:29:55 | 日記
 ようやく3年生のクラブ活動が引退を迎え(とはいえ、音楽系統のクラブ活動は秋のコンクールまで続きますし、学校外の活動の中にはまだ引退ではないものがありますが)、3年生のお勉強も本格化してきました。

 私自身はあくまで本業はそろばんの先生です。とはいえ、一応大阪ではぎりぎり進学校としわれる高校に通い、予備校に1週間通っただけで、塾通いを一切せずに地方国立大学へと現役合格をし、最終学歴は国立大学大学院ですから、ある程度大学進学に関しては物言う資格があるかと思っています。

 で、私自身は中学生をメインとした塾指導を行っていますが、その目標は「高校入試」でも「大学入試」でもありません。塾指導を受けた生徒全員に大学進学をして欲しいとも思いません。なんなら高校へ進学しなくてもいいと思っています。
 私自身が生徒に身につけて欲しい力は「自分の進路を自分で決定する」そして「その進路に進むために必要な努力をできる人間になる」というものです。そのためにお勉強が必要であればお勉強ができるようになればいいし、お勉強以外の能力が必要であればそれを磨けばいいと思っています。

 もちろん、進学塾の目標は「高校入試を突破すること」や(対象生徒が中学生であっても)「大学入試を突破すること」でいいと思います。ただ、私自身はこうしたことを最終目標にしたくないんですよね。
 いわゆる旧帝大を始めとする難関大学に合格するためには、甘ったるいお勉強では無理です。中学時代にその先まで見据えたお勉強の力を涵養する必要がありますし、指導者の力量が大きく問われるところだと思います。

 ところが、そうしたお勉強一本やりで頑張りぬき、名門大学に合格した学生の中で一定数が「燃え尽き症候群」になることをご存知でしょうか? もちろん名門大学へ合格することは並大抵の努力でできることではありません。高校3年生で1年間死に物狂いで勉強したくらいで届くことは稀でしょう。そうした力は中学生、ひょっとすると小学生の頃から身につけた力なのかもしれません。そして残念ながら公立の学校に通うだけでそうした力をつけることは、現在の日本においては不可能と言っても過言ではないでしょう。
 そうした能力は進学塾に通うことで身につけることが大半だと思います。そしてそうしたことを謳い文句にしている進学塾さんは実際問題として、生徒にそうした力をつけてくださるでしょう。

 ところが、旧帝大や難関大学に合格する力=社会に出て自分の希望の進路をかなえる力ではないんですよね。

 申し訳ないのですが、私は「大学入試まで見据えて指導しています」という謳い文句はたくさんお見受けしましたが、その先の「希望の進路へ進む力を身につけて欲しい」と訴える塾さんはそう多くはないんですよね。(たとえばteTsu塾さんは「人の成長から学力だけを切り取ることはできない」としておられます。このあたりの感覚は似て非なるものではありますが、私は勝手にかなり近いと思っています)
 私はもう「高学歴=就職安泰」という時代は終わりつつあると考えています。

 私自身は、教え子が自分で未来を切り開く力を得て欲しいと思っています。それは「自分で自分を俯瞰できる力」と考えています。今自分ができること、今の自分ができなければいけないこと、先の自分ができていなければいけないこと。こうしたことが自分自身で見えるようになってほしいのです。

 自分自身の将来に大学進学が必要かどうかは、私が決めることではありません。生徒自身がその学びの中で判断していくことです。私はその判断ができるだけの力を身につけて欲しいし、判断したあとで「それはあなたの能力では無理だよ」と言われないだけの力をつけて欲しいのです。

 小学校未就学児~大学生までを指導した経験をもとにした考えです。恐らく世の中に小学校未就学児~大学生までを指導した経験のあるそろばんの先生はそう多くはないでしょうし、その中で小学生~大学生までお勉強も指導した経験を持つ先生って、そんなに多くないんじゃないかなと思っています。

 もちろん進学塾は学歴最優先でいいんでしょうが、私は少し違う考えを持っていますよ。というお話でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お勉強の本質って誰が教えるの?

2018-09-20 23:55:58 | 日記
 塾って、基本的には学校ではできない高度なお勉強をするところだと思うんですよね。

 塾通いをする割合は、生徒たちに聞く感覚では小学生で半分弱、中学1・2年生で6割強。中学3年生で8割弱といった感覚です。私の子供時代の倍くらいの感覚ですかね。
 昔は塾と言えば「進学塾」でしたから、「塾」といえば高度なお勉強をするところでした。入塾テストをクリアしなければ塾通いすらできなかったはずです。今では入塾テストをクリアしなければ入れない塾なんてそうないと思います。

 で、少子化も相まって今の学習塾は本来は「進学塾」では受け入れるはずのない学力層の生徒も受け入れるようになりました。そんなこんなで、学力的には偏差値と言う指標で言うと40弱の生徒も塾通いをしています。
 私の感覚で物を言うのですが、偏差値40未満の生徒というのは「そもそもお勉強が苦痛でしかない」という状態になっています。お勉強に対する動機付けがされていないんですよね。で、とりあえず覚えたら点数になるものを片っ端から覚えてなんとかテストの点数を形にする。その繰り返しで進んでいくのですから、いつまでたっても「学力」は身に付きません。つくのは「覚えると言う作業に対する苦痛」だけです。

 さて、本来的にはお勉強の動機付けこそ学校の守備範囲だと思うんですよね。でも最近の生徒たちの様子を見ていると、教科書を進めていくことに必死で、生徒たちの顔なんかみちゃいないだろ!なんていう先生が増えていると感じます。

 たとえば私の専門は理科なので、理科でお話しますね。

 問い 試験管で液体を加熱するとき、沸騰石を入れるのは何故ですか?

 答え 突沸(とっぷつ:突然沸騰すること)を防ぐため。

 私、この流れ大嫌いなんですね。これなんなら(  )の中すら理解せずに、答え丸暗記の生徒だっていますからね。ここで「どうして沸騰石を入れると突沸を防げるんだろう?」という疑問を持って欲しいわけですよ。こういう「なぜ? どうして?」こそがお勉強の、ひいては学問の本質だと思うんですよね。
 進学塾においてこういう部分は「各自で解決するはず」という前提の下、もっと難易度の高いことを指導するんでしょう。塾は「テストの点数を上げて、偏差値を上げて、志望校への合格へと導く」ことが至上命題ですから、お勉強の本質に触れているひまはないはずなんですよ。
 こうした部分こそが学校教育の真髄であるはずなんですが、今まで塾の先生として20年以上指導してきてこのことを授業中に説明している先生を存じ上げません。「沸騰」の科学的意味合いを説明すれば事足りますし、せいぜい1分あれば大丈夫なんです。雑談をしている時間はあっても、お勉強の本質を教える時間はないようなんですよね。

 そんなわけで、私は1人で5教科を教えながら、あほな雑談をしながら、物事の本質に少しでも興味を持って欲しいと思いながら、無駄なお勉強をするんじゃないよと伝えながら、教え子たちに真に伝えるべきことはなんだろうかと考えながら日々授業をしております。

 学校でも教えられず、目先のお勉強に躍起なっている塾に通う子供たちは、誰にお勉強の本質を教えてもらうんだろうか? と少し考えた秋の夜長でしたとさ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする