最近特に大きくなってきていると感じます。
たとえば、私の教え子でいえば、メンバーの平均点が定期考査でも実力テストでも80点以上上回っている学年があります(し、ありました)。
そうした生徒は、もちろん成績に呼応した通知票を持ち帰ってくれるので、素点と通知票の評定でいえば、世間一般で偏差値60前後の高校を標準とした進路を選択することになります。現実的に実際に進学をしてくれていますし、外部の模擬試験(五木)でもだいたい妥当な成績を持ち帰っているんですよ。
でも、私が指導している手ごたえで言うと「そんなに偏差値あるかなあ?」という感覚になってしまうのです。もちろん自慢の教え子ですし、必死に努力してくれていることに文句はないのですが、学力の背後にある「学力で涵養されない力」が足りていないような気がするんですよね。
私がよく教え子に言うのが「今ここにタイムマシンがあったとして、君たちを先生の子供のときに連れて行ったら、たぶんメンバーの平均点は学年平均を少し上回ったらいいくらいだと思うよ」というフレーズです。
別にベビーブーム世代の自慢ではなくて、純粋にそう感じているんです。この危機感はおよそ10年位前から感じていました。とにかくそろばん学習者と、中学生の塾から入学してきた生徒の学力以前のレベルが違いすぎていたんですよね。そんなことから、約10年前に「塾指導は原則としてそろばん学習者に限定する」という方針にしたんですよね。
で、そろばんの授業の中に漢字指導や暗誦指導。都道府県名を漢字で書かせたり、毎日の過程学習を課してみたりと、あらゆる試みを始めました。特に暗誦は「夏休みチャレンジ」のカテゴリーに詳しいのでそちらをご参照いただくとして、本当に高学年は難しいと思います。大して意味は分からないのだろうと思っていました。
なぜこうしたのかという想いはあっても、「この教育は教育学的に正しいのだろうか?」とずっとひっかかるものがありました。でもかの有名な外山 滋比古(とやましげひこ)先生:言語学者 の本を読んでこのもやもやが解決されました。
ものを読むときの読み方には、既知の知識をなぞらえて読む読み方と、未知の知識を読む読み方がある。そして日本の言語教育は「未知の知識を読む」読み方の指導をしていない。昔は「四書五経」をただ単に読む「素読」というのがあって、これが「未知の知識を読む読み方」に相当する。これこそが言語能力を鍛えるのに最適なものであると。
まさに、私がおぼろげに考えていたことが、すごく明確に書かれていました。自分の既知の知識では太刀打ちできないレベルのことに挑戦してほしい。そして「できる自分」に出会って欲しいという考えの裏にあるものがすごくストンと理解できました。
この考え方は、私がブログで再三書いてきた「既知の知識の組み合わせで未知の現象に立ち向かう」ために必要なことでもあると再認識しました。
で、こうしたことにそろばんの授業で挑戦してもらっているから、私の教え子は比較的良い成績を収めているのだと納得しました。
私の幼少期には、こうしたことを当たり前に指導してくれた先生がいたなあと。こうしたことを小学校低学年くらいのときにきちんと指導される経験が少ないことが、イマイチ私がしっくりとこないことの遠因でもあるんだろうなと思いました。ということは、ここをもっともっとしっかりと教えていくことで、さらなる教え子の伸びが期待できるのかなと思います。でも今でもしっかりと頑張ってくれているので、これ以上するべきことを増やすのもなあ。なんていう思いもあったりしますね。まあ、ゆっくりと考えていこうと思います。
そろばんの学習を通して圧倒的な下地を作っていくことができる。なんだかワクワクしますね。ただ単にお勉強の学力を上げるだけではなくて、様々な角度から子供たちの能力を底上げできるようにまだまだ精進ですね。