私は、割と介入する方です。私のもとに来てくれるということは、奇跡に近い「縁」であると考えています。関わった生徒とそのご家族がマイナスになることが分かっているのに放っておくことはなかなか性格的に難しいものがあります。それゆえにこちらの想いが保護者の皆さまに伝わらずに誤解を招いたこともありましたし、保護者の皆様に指摘されて行き過ぎや間違いに気付くこともありました。
それでも「一時的に嫌われること」を恐れていてはいけないと思っています。「ダメなものはダメ」という意識は持ち続けていたいのです。もちろん、私の考え方が唯一無二の正解だとは思っていません。だから保護者の皆様との懇談の機会を大切に・出来るだけ持つようにしています。
たとえば宿題を忘れて来た時、子供たちは様々な様相を見せてくれます。素直に謝りに来る生徒もいれば、こちらから声をかけるまで黙っている生徒もいます。こちらの目を盗んでなんとかばれずにやってきたことにしようとする生徒もいれば、宿題なんてありましたっけ?という態度で知らぬ存ぜぬを突き通そうとする生徒もいます。さらには(連絡帳制度がありませんので)宿題なんて出されてましたっけ?と本気で覚えていない生徒もいたりします。
私の中での正解は「忘れたことを素直に申告し謝ったうえで、その解決策を提示してこちらを納得させる」というものです。そうしてくれるようになるまで何度でも何度でも伝えます。そして生徒のキャラクターによってその伝え方は一人一人異なります。
きれいごとでもなんでもなくて、私は叱ることや諭すことを含めて「子供たちと真剣に向き合うこと」をめんどくさいと思ったことはありません。「何度伝えれば分かるねん」と心の中で思っていることはありますが(笑)。とはいえ「◎◎回伝えれば子供は理解する」なんて楽ちんなことはありませんから、毎年毎年違う生徒に対して繰り返し繰り返し伝えるだけです。
そろばんもお勉強も、「本人ができるようになりたい」という意識をもって立ち向かわないとできるようになるものではありません。だからこそ、物事への向き合い方を幼少期はそろばんで、小学校高学年からはお勉強を通して伝えていると思っています。
「子供たちは楽をしたいものです」。よく見る表現ですが私は間違いだと思っています。「人というものは楽をしたいものです」が正解だと思います。うそや間違いをその都度修正して「楽をすれば今は楽しいけど、後で苦労する確率がうんと上がる」ことに気が付いてほしいのです。私自身もすぐに楽をしたくなります。暇さえあれば寝てますし、YouTube見るのが大好きです。でも、子供たちの前ではきちんと筋を通したいのでやらなきゃいけないことは後回しにしないように、教える中身についての学びは怠らないようにしています。
指導する側があきらめて子供たちを「放置する」ことはあってはならないことだと思います。それは子供たちに「見捨てられた」という感覚を持たせることにもなりかねません。一人一人のキャラクターに合わせて「見守る」ことは必要ですが「見守っている」ことは表情や態度で示し続ける必要があるとも思っています。
子供たちを「叱る・諭す」という行為はとんでもなく重いものです。その子供たちの人生を左右することも少なくありません。「先生に無茶苦茶叱られて良かったですよ」と来てくれる卒業生と話をするたびに、私のもとを離れるその日まで、伝え続けることは大切だと思っています。子供たちに介入することを辞める(伝わらない生徒を放置する)ときは、私は指導者を辞めるときだろうなとぼんやりと考えています。
それでも「一時的に嫌われること」を恐れていてはいけないと思っています。「ダメなものはダメ」という意識は持ち続けていたいのです。もちろん、私の考え方が唯一無二の正解だとは思っていません。だから保護者の皆様との懇談の機会を大切に・出来るだけ持つようにしています。
たとえば宿題を忘れて来た時、子供たちは様々な様相を見せてくれます。素直に謝りに来る生徒もいれば、こちらから声をかけるまで黙っている生徒もいます。こちらの目を盗んでなんとかばれずにやってきたことにしようとする生徒もいれば、宿題なんてありましたっけ?という態度で知らぬ存ぜぬを突き通そうとする生徒もいます。さらには(連絡帳制度がありませんので)宿題なんて出されてましたっけ?と本気で覚えていない生徒もいたりします。
私の中での正解は「忘れたことを素直に申告し謝ったうえで、その解決策を提示してこちらを納得させる」というものです。そうしてくれるようになるまで何度でも何度でも伝えます。そして生徒のキャラクターによってその伝え方は一人一人異なります。
きれいごとでもなんでもなくて、私は叱ることや諭すことを含めて「子供たちと真剣に向き合うこと」をめんどくさいと思ったことはありません。「何度伝えれば分かるねん」と心の中で思っていることはありますが(笑)。とはいえ「◎◎回伝えれば子供は理解する」なんて楽ちんなことはありませんから、毎年毎年違う生徒に対して繰り返し繰り返し伝えるだけです。
そろばんもお勉強も、「本人ができるようになりたい」という意識をもって立ち向かわないとできるようになるものではありません。だからこそ、物事への向き合い方を幼少期はそろばんで、小学校高学年からはお勉強を通して伝えていると思っています。
「子供たちは楽をしたいものです」。よく見る表現ですが私は間違いだと思っています。「人というものは楽をしたいものです」が正解だと思います。うそや間違いをその都度修正して「楽をすれば今は楽しいけど、後で苦労する確率がうんと上がる」ことに気が付いてほしいのです。私自身もすぐに楽をしたくなります。暇さえあれば寝てますし、YouTube見るのが大好きです。でも、子供たちの前ではきちんと筋を通したいのでやらなきゃいけないことは後回しにしないように、教える中身についての学びは怠らないようにしています。
指導する側があきらめて子供たちを「放置する」ことはあってはならないことだと思います。それは子供たちに「見捨てられた」という感覚を持たせることにもなりかねません。一人一人のキャラクターに合わせて「見守る」ことは必要ですが「見守っている」ことは表情や態度で示し続ける必要があるとも思っています。
子供たちを「叱る・諭す」という行為はとんでもなく重いものです。その子供たちの人生を左右することも少なくありません。「先生に無茶苦茶叱られて良かったですよ」と来てくれる卒業生と話をするたびに、私のもとを離れるその日まで、伝え続けることは大切だと思っています。子供たちに介入することを辞める(伝わらない生徒を放置する)ときは、私は指導者を辞めるときだろうなとぼんやりと考えています。