輸入CD店でイヴァン・フィッシャー指揮のバルトーク・オーケストラル・ミュージックという三枚組のフィリップスのCDが安く売っていて、ジャケットも美しかったので、これを聞こうと決めた。前にバルトークのピアノの弟子のシャンドールのバルトーク・コンプリート・ソロ・ピアノ・ミュージックを聞いて心地よく知的な響きを味わえたので、今度はオーケストラルだと手を出した。家に帰って聞いてみたところ、まず合唱曲の素晴らしさに心を打たれた。ブルガリア合唱にも似た野趣のあふれる野の花のような歌が、オーケストラと見事に融合している。村の情景BB87bである。他のオーケストラ曲も民謡のメロディーを吸収して、独自の語法で新しい命を吹き込まれている。
若い頃バルトークはドイツ・オーストリア式の音楽を叩き込まれ、ハンガリーがオーストリアの属国であることに憤って、愛国の交響詩を作ってはみたが、その作曲法はドイツ・オーストリア流の枠を出なかった。そのことを友人コダーイに指摘され、コダーイの指導で地方の民謡の採集を始めた。
コダーイが言うには、田舎の人はなかなか都会人に心を開かない、だが、いったん心を許して民謡を歌い始めると、次から次へと歌のなる木に実がなるように、貴重な埋もれていた民謡があふれ出てくるという。
間もなくバルトークも同じことを幾度となく経験し、その掛けがえのない瞬間に心を強く動かされた。バルトークは民謡を消化して独自の曲として魂を入れる作曲法を身につけ、民族音楽学者として、作曲家として開花した。けれどもハンガリー民謡とルーマニア民謡の共通性を指摘したことから偏狭なハンガリー中心主義者に大いに批判された。
ナチスの影響が強くなったハンガリーから身を切る思いでアメリカに亡命し、コロンビア大学の客員助手として半年ごとの契約でユーゴスラビア民謡の資料の整理をして貧しく過ごし、友人たちの頼みで全米作曲家協会の助けを得て病床で作曲を続けた(ひのまどか「バルトーク」を参照)。テレビでブルガリア民謡をもとに合唱曲の作曲をする老人(フィリップ・クーテフの友人)が、「民謡は作り物ではない、民謡は嘘をつかない」と言っていた。バルトークからは、ヨーロッパの忘れ去られた古い旋律が、尽きることなく聞こえてくる。