クリスマスも近いので聖書の話をしよう。
私は大貫隆の『新約聖書ギリシア語入門』を愛読している。ギリシア語の文法書は何冊も読んだが、この本がいちばん読みやすい。ギリシア語の文法書では田中美知太郎・松平千秋の『ギリシア語入門』が定番なのだが、この本はわからないところがあると§何ページを読めとタライ回しにされるのと、練習問題に答えが付いていないところが不満である。その点大貫隆の文法書は解答がばっちり付いていて、独学者でも少しずつステップアップできる。文法的には私の学んだ限り、古典ギリシア語と新約聖書の文法は大きく違わない。違うのは主に出てくる単語の違いである。
また、大貫隆の文法書には、ところどころに新約の要所要所のコラムがギリシア語原文とともに載っていて、これを読むのが楽しいのである。「鳥には巣があり、狐には穴がある、けれども人の子には頭を横たえる場所もない」などイエスの寄る辺ない気持ちが吐露されていることが書かれ、「私はサタンが天から転がり落ちるのを見た」という言葉がイエスの神秘体験として印象的に述べられたりする。このコラムがあるから文法書を読み進める気になる。大貫隆さんは『イエスという経験』というイエス論を書いていて、「イエスはすでに天界では神の国が実現されて、もうすぐその余波で地上にも神の国が実現される、自分が生きているうちに神の国が実現されると確信していた、それがイエスの布教の原動力だった、それなのに十字架に架けられて死のうとしている今なぜ神が沈黙しているのかわからずに死んだ、」という信徒が聞いたら怒られそうなことを書いている。逆にP.Dウスペンスキーはイエスは命がけで秘教の秘蹟劇を演じて見せたのだと言っている。どちらも極端な説ではある。
私はイエスにはメシアを「無力に殺される子羊」として予言した『イザヤ書』がいつも念頭にあって、それを神意として自分で引き受ける覚悟をしていたのではないかと想像している。新約聖書をギリシア語で読むにはthe New Greek-English Interlinear NewTestament、(tyndale社 )が英語ギリシア語対訳で読みやすい。また、Loreto社のNovumTestamentumが珍しい英語ラテン語対訳新約聖書で便利である。時には原語を読みかじってみたりして、イエスの胸中をああだろうか、こうだろうかと想像してみると、クリスマスが身近に感じられてくる。