人類学者ジェイムズ・ジョージ・フレイザーの『金枝篇』はヨーロッパ文化の古層の知識の宝庫である。ローマの近くのネミの森では、祭司を務めていたのは代々森の王と呼ばれる人物だった。森の王になるためには、金色の枝を切り取って、現在の森の王を殺し、自分がその座に就くのだ。この奇妙な風習の謎をフレイザーはあらゆる角度から解き明かそうとする。まず、自然の力に働きかけることができるという信仰を太古のものとして挙げ、それから、しばしば王とされる人間神の登場を挙げる。人間神は自然の力をつかさどる神の代理である。そしてヨーロッパの神々の古い形が樹木霊であったと証言する。
樹木霊は冬に死んで春に再生する。このことから神の死と再生がテーマに上る。ヨーロッパのフォークロアの残る祝祭では、緑の男、五月の王、緑のゲオルギウスなどと呼ばれる緑の繁茂力を宿した男が死と再生を演じる。これは古い神を殺して蘇らせる儀式を人間に肩代わりさせた復活劇だった。王や祭司は自然の運行を左右するものとして丁寧に扱われ、さまざまなタブーによって幾重にも守られている。だが、その力が衰えてきたら、象徴的に死んでもらって、古い嫌なものはついでに持ち去ってもらって、新しい王に挿げ替えようという発想になる。ここから身代わりのために受難に合う者、すなわちスケープゴートのテーマも加わる。
『金枝篇』は長いこと古臭い書物として人類学者に置き去りにされていた。その時代的制約はいくつかある。『金枝篇』は膨大な例証を挙げるが、それが余りに広い地域に無節操に言及していること。人類が呪術→宗教→科学へと進化する定めにあり、乗り越えられる過去の遺物として民間信仰を見ていること。フレイザーは実はキリスト教をこの死んで蘇る神のヴァージョンだと言いたいのだが、差し障りがあるのでそれを前面に出すのは控えている。キリスト教も太古の心性の名残だということで彼は、キリスト教を相対化して脱ぎ捨てようという意図がある。
そのような制約に縛られた『金枝篇』であるが、今読んで価値のある特徴がいくつもある。ヨーロッパの古層にある信仰の構造(死んで蘇る自然神)を浮き彫りにしたこと。その証明を文献及びフォークロアに求めたこと、キリスト教と異教を同じ土台の上に並列したことなどである。西洋古典も現在に至るフォークロアと通底していると考えることで、古代の神々が異様に生々しく身近なものとして実感できるようになる。