笠井潔の「哲学者の密室」は、実質的にレヴィナスとハイデガーの対決を描いたミステリーである。主人公は、「現象学的推理法」によって密室殺人の謎を解き明かす。レヴィナスが良心の人、ハイデガーが偽神秘家として登場する。
実際のところはレヴィナスは現象学に対して、ハイデガーに対して何を言っていたのか。レヴィナスは難解だと言われているが、理解への糸口はあるのか。
サロモン・マルカとの対話が群を抜いてわかりやすい。それによれば、レヴィナスの現象学のとらえ方はこうだ。
現象学は、「対象をめざす行為そのもの」のうちに隠されている仕掛けの一切を探究する。現象学では、対象をその世界に改めて置き直す。フッサールが薦める現象学的方法の全部を採り入れなくとも、思考のプロセスに対する特別な関心があれば、人はフッサールの弟子であると称することができる。
つまりフッサールは意識が対象をとらえる過程を一からたどり直そう、と呼び掛けたのであり、そのことにインパクトを感じたと言っているのだ。
このレヴィナスのハイデガーへの態度は尊敬と拒絶の両方の面を備えている。レヴィナスはハイデガーの「存在と時間」をとりわけ評価する。というのも、「この本の一連の分析が現象学に何ができるかをみごとな仕方で提示した」からだ。
けれどもレヴィナスは、ハイデガーの政治的態度を敢然と批判する。「1933年にハイデガーがなにものであったかを私たちは知っている、人間はどんなものであることも許されるとしても、たとえ一時の過失からにせよ、ヒトラー主義者になることだけは許されない」と断固として言う。
戦争経験からレヴィナスは「他者に対する倫理」の思想を深める。存在の公正さは他者の優位性を認めることで保たれる。人は他者に対して有責で、他者は私とつねに関係し、他者の顔とは私をつねにみつめている。だから私は「他者を放置できない」という呼びかけを感じるという。そして、他者の顔の先には神がいる。
ハイデガーが物事を在らしめる働きへの畏敬を強調するのに対し、レヴィナスは他者の顔の倫理的な呼びかけを重視する。どちらも利己性からの飛躍を思索し、一方は在らしめる働きに、他方は他者の顔に答えを求めた。政治的責任の点でハイデガーには落度があるが、双方とも深淵に触れた哲学だと言える。(サロモン・マルカ「レヴィナスを読む」を参照・引用)