超人日記・作文

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#俳句・川柳ブログ 

<span itemprop="headline">ドヴォルザーク、鉄道少年の鼓動</span>

2009-02-10 22:16:27 | 無題

アントニン・ドヴォルザークは苦学の人だった。チェコのネラホゼヴェス村で育った彼は、村の小学校の教師であるシュピッツ先生にバイオリンを丁寧に教えられた。
それからドイツ語を習う名目でズロニツェに行き、オルガンの名手アントニン・リーマンに多くの楽器の奏法と作曲法を習い、さらにプラハのオルガン学校で作曲法を習った。
子どもの頃のドヴォルザークをときめかせたのは、鉄道の開通だった。それ以来ドヴォルザークは駅へ足繁く通い、時刻表を暗記してしまうほど鉄道が好きになった。ドヴォルザークが世界へ躍進するきっかけになったのはスラヴ舞曲で、ブラームスの推薦で、ブラームスのハンガリー舞曲のような作品を、と楽譜出版社に頼まれて書いた作品だった。ブラームスとの交友関係は以来ブラームスが没するまで続く。
ブラームスといえば毒舌の気難し屋で有名だが、ドヴォルザークの音楽の尽きることのない楽想の豊かさに敬意を払い、実直な人柄を愛した一人だった。
ドヴォルザークの先を歩いたスメタナはチェコ人でありながらドイツ語を母国語として育ち、40才頃チェコ語を学び直した人物だった。彼とは正反対にドヴォルザークはチェコ語を日常的に話し、苦労してドイツ語を学んだ。チェコは当時オーストリアの属国であり、こういうねじれ現象が生まれる。
ドヴォルザークはプロテスタントの先駆けとなったチェコ人ヤン・フスの「聖書に帰れ運動」に共鳴していたが、自身はカトリックだった。ヤン・フスを称える「フス教徒序曲」を書いてもいる。
ドヴォルザークは病で三人の子どもを失い、「悲しみの聖母」にその思いを託している。その後子宝に恵まれ、アメリカにわたってハーリー・バーレイという、黒人霊歌の第一人者と親しく付き合い、アメリカに国民音楽を創生するなら、黒人霊歌や先住民の歌から学ぶべきだと考えた。彼は「新世界より」でその持論を実践する。そんな彼の交響曲を堪能するには、ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコフィル演奏の交響曲全集が最適だ。
そのドヴォルザークの交響曲からは、汽車のリズムのような音が聞こえてきたりして、鳩好きで鉄道マニアの少年、トニークの面影が伝わってくる。(黒沼ユリ子「ドヴォルジャーク」等を参照。)



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