超人日記・俳句

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#俳句・川柳ブログ 

<span itemprop="headline">「心理学と宗教」が手掛かりの旅</span>

2010-02-01 22:10:57 | 無題

ユングの「心理学と宗教」を読んでいる。
表題作の「心理学と宗教」は患者の宗教的な夢のなかに、しばしば元型に由来する円や正方形や四本のろうそくの灯のような完全性や調和を表す象徴が登場するという。人は既存の信仰にプラスして無意識が与える象徴を自我に取り込むことで、より高度な人格の深化が成されるという。
次の三位一体論では三位一体は三元性の元型に基づくが、より完全な調和を表す四元性に至るために付け加えるものは、聖母被昇天という女性性か物質化の権化であるはずだという。
続く「ミサにおける転換象徴」ではこのパンは私の肉である、この葡萄酒は私の血であると司祭がイエスの代わりに言ってパンと葡萄酒を聖別したうえで分け合うミサの心理学的な意義が考察される。この典礼は神の子キリストが地上に人間として贖罪のために誕生し、十字架の死によって贖罪を果たし、天上に座しているという教義の象徴でありながら、心理学的には父は神のイマーゴ(心象)、子は自我を越える普遍的な自己(セルフ)、聖霊は生命を指し、ミサに立ち会うことで、人は意識の変容の過程を教えられるという。すなわち、利己心を持つ自我の枠に収まらず、無意識を含む人格であり小宇宙でもある自己に向かって自分を開いていく個性化の過程が、己を虚しくしてイエスの贖罪を受け入れるミサの心理学的な意味だという。けれども人が自我とイエスを安易に同一視するなら、自分はイエスに等しいという慢心に陥る。肝心なのは普遍的な自己の象徴としてイエス・キリストを受け止める態度であり、ユングは意識の変容の象徴を正統なキリスト教だけでなく、グノーシス派や聖書の外典、錬金術にまで求めている。その点でユングは法外に寛容な立場に立っていると言える。イエスはグノーシス的な光の子が望んで暗闇に降り立ち、救済の後光の世界へ戻って行く、という神話的パターンの変形をミサのなかに見出し、フレーザーのいう植物霊の死と再生のパターンをミサの葡萄酒とパンの象徴に見ている。多様な比較対象を列挙されて読者は戸惑うかもしれないが、ユングの真意は自我がより広い自己に開かれてゆく象徴を宗教のなかにみつけることなのである。
暗がりを危ぶみながら今日もまた夢の書を手に旅を続ける



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