フランスの哲学者、ガストン・バシュラールの書を手に取る夢を見た。
夢のなかでは至高存在の書みたいな題名の本だった。
眼が覚めて不審に思ってそんな本があるのか調べると、やはりなかった。
けれども、バシュラールの肉声の講義のCDがあることを発見してしまった。
題名が詩学と諸元素、目覚めて夢見る人、というおもしろそうな題名である。
何よりあのバシュラールの肉声が聞きたい、ということで注文してしまった。
私の父はタワーレコードの現代音楽等のコーナーで、記号学者のロラン・バルトの講演集を見つけて狂喜乱舞して買い、ポータブルCDプレーヤーに入れて聞いていたから、何やら似ていなくもない。
私は学生時代バシュラールを講読していて、スピノザやデカルトの研究で有名なフランス哲学の大家から、せめてバシュラールぐらい読みこなせるようになってください、という宿題を与えられたまま、その先生は逝ってしまったので、私の部屋にはバシュラールの原書が四冊置いてあった。
今日改めてバシュラールの「蝋燭の焔」の原書を手にとって、翻訳と突き合わせて読みふけってしまった。
「簡素な夢想の小著のなかで、知識を付け足すことなく、探究方法の統一性に縛られることなく、一連の数章のなかで、孤独な焔の凝視の最中にいかなるイマージュの刷新を夢想家が受け取ることになるのかを私たちは語ろうとした。
夢想を誘う対象のなかでも、焔は第一のイマージュの起動因である。焔は私たちにイマージュすることを強いる。焔を前にしていったん人が夢見ると、人が知覚するものはイマージュするもののまえで無と化すのである。
豊富な瞑想の領域で、焔は隠喩とイマージュの独自の価値を有する。生を表現する動詞の主語として焔を選べば、焔は動詞に十分な活気を与えるのがわかるだろう。一般性に走る哲学者は独断的冷静さを以て断言する。創造のなかの生と呼ばれているものは、全ての形と在り方において同一の精神、ひとつの独特な焔なのだ、と。
けれどもそのような一般化は結論を急ぎ過ぎる。私たちが想像の焔の想像力の動因の機能を感じるのはイマージュのあれこれの多様性においてなのだ。
焔が燃えるという動詞はそれゆえ、心理学の用語に数えなければならない。それは表現の世界の一角を占める。燃え立った言葉のイマージュは精神作用を燃え立たせ、詩の哲学者が明確にしなくてはならない興奮の色調を与える。
夢想のオブジェとしてとらえられた焔によって最も冷たい隠喩が真のイマージュになる。しばしば隠喩はよりよく言おうとする思考の言い換えなのに対し、イマージュ、真のイマージュは、それが想像力のなかの原初的な生である限り、現実界を離れ、想像された世界、イマージュ独自の世界へ向かうのである…」原書の息遣いが伝わるだろうか。
私はこのバシュラール先生の夢想の哲学が昔から大好きである。バシュラールの写真が、亡きフランス哲学の先生の笑顔と重なる。
夜更けまで屋根裏部屋に揺れている夢見る焔ひとり詩を書く