竹田青嗣・西研著「はじめてのヘーゲル」を読む。
「精神現象学」という本では、
意識が知識の獲得とその乗り越えの旅を繰り返し、
いま、ここの感知から始まって、
外界も私の意識と別物ではないという
自覚に至り、
自分を他人に承認させる闘争を経て、
自由な理性的人格を人が手に入れるまでの古代・近世・近代の歴史を
世界精神の自己展開の歩みとしてたどり直す。
さらに、精神はキリスト教と向き合い、神と私は別物でないという
自覚に達する。
最終的に、神の自己展開としての精神を
人間が感得する、絶対知の境地に至り、
個人の意識の旅と哲学史と歴史が完結するという
長大なストーリーであることを確かめる。
人が神を知ることは、神が外化して自分を知ることであり、
その歩みが、個人の意識の発達と、
古代・近世・近代の自由への歩みと、
哲学史の完成へ向けた運動に、重ね合わされている。
高度に難解な、ヘーゲルの考えも、ストーリーと受け取れば
何とか視界がひらけてくる。
精神が絶対知まで旅をするその道のりは神の展開
「精神現象学」という本では、
意識が知識の獲得とその乗り越えの旅を繰り返し、
いま、ここの感知から始まって、
外界も私の意識と別物ではないという
自覚に至り、
自分を他人に承認させる闘争を経て、
自由な理性的人格を人が手に入れるまでの古代・近世・近代の歴史を
世界精神の自己展開の歩みとしてたどり直す。
さらに、精神はキリスト教と向き合い、神と私は別物でないという
自覚に達する。
最終的に、神の自己展開としての精神を
人間が感得する、絶対知の境地に至り、
個人の意識の旅と哲学史と歴史が完結するという
長大なストーリーであることを確かめる。
人が神を知ることは、神が外化して自分を知ることであり、
その歩みが、個人の意識の発達と、
古代・近世・近代の自由への歩みと、
哲学史の完成へ向けた運動に、重ね合わされている。
高度に難解な、ヘーゲルの考えも、ストーリーと受け取れば
何とか視界がひらけてくる。
精神が絶対知まで旅をするその道のりは神の展開