「アルカリ色の雲」―宮沢賢治の青春短歌を読む・佐藤通雅編著(NHK出版)を開く。
主に盛岡中学時代、盛岡高等農林学校時代の習作である。各首の後に評者の説明がある。
〇中の字の徽章(きしょう)を買うとつれだちて なまあたたかき風にふれたり
父親と盛岡中学の中の字の徽章を買おうと連れ立って出て行き、生暖かい風のなかに出た。
日常描写から、異世界へ行き当たる感覚がある。
〇ひがしぞら かがやきませど 丘はなほ うめはちそうの夢をたもちぬ
夜明けの光に東空は輝いているが、梅鉢草の自生する丘にはまだ、花が眠れるほどの夜の暗さが残っている。
〇ひとびとは鳥のかたちによそほひて ひそかに秋の丘をのぼりぬ
鳥になれない人々は鳥に装い、金色に輝く丘を登っていた。鳥のかたちによそほひては、文学的空想なのか、民俗に根差した習慣なのかわからないが、幻想的な一首である。
〇せともののひびわれのごとくほそえだは さびしく白きそらをわかちぬ
すっかり葉を落とした樹の下から見上げる空は細い枝によって、確かにたくさんのひびが入ったように見える。枝を瀬戸物のひびと見る眼が、風景を幻想へ引き込んでゆく。
〇雨にぬれ 桑つみをれば エナメルの雲はてしなく北に流るる
桑を摘んでいる自分を描いたのち、上空の広い景色に眼を転じている。雨に濡れてしまったあと、雲が果てしなく流れて行くようすに眼を奪われている。
〇はだしにて よるの線路をはせきたり 汽車に行き逢へり その窓明し
裸足で夜の線路を走ったら、汽車に行き逢った。その窓は明るかった。
ここから「銀河鉄道の夜」が始まりそうな、賢治の原風景。習作だけに、後の夢の萌芽が一杯詰まっている。
習作だが、賢治らしい感受性が随所に見て取れる。「近代短歌、最後の秘境」と帯にある。
八月の列車で賢治を去るときに車窓に見えた花火現つか(私の作)
主に盛岡中学時代、盛岡高等農林学校時代の習作である。各首の後に評者の説明がある。
〇中の字の徽章(きしょう)を買うとつれだちて なまあたたかき風にふれたり
父親と盛岡中学の中の字の徽章を買おうと連れ立って出て行き、生暖かい風のなかに出た。
日常描写から、異世界へ行き当たる感覚がある。
〇ひがしぞら かがやきませど 丘はなほ うめはちそうの夢をたもちぬ
夜明けの光に東空は輝いているが、梅鉢草の自生する丘にはまだ、花が眠れるほどの夜の暗さが残っている。
〇ひとびとは鳥のかたちによそほひて ひそかに秋の丘をのぼりぬ
鳥になれない人々は鳥に装い、金色に輝く丘を登っていた。鳥のかたちによそほひては、文学的空想なのか、民俗に根差した習慣なのかわからないが、幻想的な一首である。
〇せともののひびわれのごとくほそえだは さびしく白きそらをわかちぬ
すっかり葉を落とした樹の下から見上げる空は細い枝によって、確かにたくさんのひびが入ったように見える。枝を瀬戸物のひびと見る眼が、風景を幻想へ引き込んでゆく。
〇雨にぬれ 桑つみをれば エナメルの雲はてしなく北に流るる
桑を摘んでいる自分を描いたのち、上空の広い景色に眼を転じている。雨に濡れてしまったあと、雲が果てしなく流れて行くようすに眼を奪われている。
〇はだしにて よるの線路をはせきたり 汽車に行き逢へり その窓明し
裸足で夜の線路を走ったら、汽車に行き逢った。その窓は明るかった。
ここから「銀河鉄道の夜」が始まりそうな、賢治の原風景。習作だけに、後の夢の萌芽が一杯詰まっている。
習作だが、賢治らしい感受性が随所に見て取れる。「近代短歌、最後の秘境」と帯にある。
八月の列車で賢治を去るときに車窓に見えた花火現つか(私の作)
「ひとびとは鳥のかたちによそほひてひそかに秋の丘をのぼりぬ」がひときわケンジっぽいと思いました!
ケンジもやはり「詠める人」だったのですね✨これが習作とは・・(ここにある歌だけを見る限りではあまり自らの内面を詠んだりはしていなかったのですね💡)
ケンジは東京に行く時にいつも夜汽車に乗って行ってたから「客車のまどはみんな水族館の窓になる」って詩が生まれたんだって、本に書いてありましたが、このころから夜の汽車にロマンをかんじていたのですね🎵
ああ、さすがクリンさん。鳥のかたちによそほひて、がひと際賢治っぽいとは慧眼です。鹿踊りとか早池峰神楽とか、賢治は見ていたと思います。何かそういう部分も感じられます。中高で詠んだ歌とは思えませんよね。さすがに後年の詩の方が本領発揮でしょうが、歌詠みとしてもレベル高いですよね。後年の賢治を読者は知っているだけに、ああ、賢治ぽいなと思って引き込まれます。クリンちゃんに紹介できてよかった。一安心です。
超人日記
超人日記さんの歌も幻想的でした✨🌠
優しいご感想、ありがとうございます。実は、自分でも気に入っています。(^^)
超人日記