アメリカン・ブルーです。
今朝、目ざましの音に目を覚ますと、枕元でルナが気持ち良さそうに眠っていました。
確か、夜中に起きた時には、ここには居なかったのに・・・・
いつの間に、そばに来たのか、そんな記憶が無いほど、私はぐっすりと寝て居たの?
きっと、余震があって、駆け寄って来たに違いありません。
いつから降り出していたのか、小雨の朝も、私の記憶を失わせていたのでしょうか。。。
今日は、あの震災の日から3ヶ月・・・・・
恐怖のあの日は、まだ小雪が舞う、寒さに震えた遅い春でしたね。
先月は、体調を崩し、震災2ヶ月を振り返ることが出来ませんでした。
三日・三つき・三年・・・・と申しますが、
その意味からすれば、ここも、一つの区切りかと思わざるをえませんね。

カンパニュラです。

蕾が膨らみ、ひとつが開花し、今は、こうして、たくさんの花が開きました。
この間に、私は、心を整理してきたのかもしれません。
昨日のTVによれば、
避難所の食料の配給を打ち切って、各自の生活にかえるようになったところがあるそうです。
仮設住宅へも、当選していても、引っ越す気持ちになれずに未だ避難所から離れられない方々も多いようです。
きっと、3ヶ月は、そんな一つの目安の期間だったと思います。
期せずして、今朝のNHK朝ドラ「おひさま」で、
出征している夫と離れて暮らし、食料は配給、防災演習や空襲避難訓練・・・
私我慢できないと言っていたこの物語の聞き手・房子ちゃん。
そのことへ、陽子さんが話した言葉が、
「我慢できる、出来ないではなくて、やるか、やらないか・・・みんなが、我慢していたのよね。」
戦時中の話しは、私もずいぶん親に聞いて来ましたが、
まさに、きっと、その時代の心に近いものがあったように思います。
一方では、国が一つになって、みんなで、乗り越えようという初めて体験した気持ちだったのかもしれません。
震災3ヶ月の朝、
ある番組で紹介していた、避難三原則



この3ヶ月間に分析された、避難におけるマニアルは変わったと思います。
指定避難所が役割を果たさないケースもあるから、本当にここで良いかを考える。
あきらめないで、その時出来る最善を考え、行動する。
誰も避難していないから・・・ではなくて、自分が一番先に危機管理を発揮して、回りの人に促す。
こうして助かった方々が、多かったということです。
震災の日、パパさんの避難誘導で、私は津波から逃げました。
何年も前から、三陸海岸沿いを仕事で歩いていたパパさんの、ものすごい防波堤を見てきた結果でしたが、
ルナといつも歩いて行っている名取川河川敷から津波が押し寄せるだろうと言っていました。
我が家の隣にある中学校はこの地区指定避難所になっていますが、
当日、いち早く駆け込もうとしたら、生徒が校庭に座らされており、そこを超えて屋上に駆け上がれませんでした。
そこから戻り、車に乗り、1キロ以上先の大きなスーパーの屋上へと向かうと、
屋根が倒壊していて、上がれませんでした。
でも、さすがに川からここまでは来ないだろうと、そこの駐車場に待機した時です。
「お母さん、今どこに居る?」
息子の電話が通じました。
「もう、閖上に津波が来ているのをTVでやっている!!」
実際、その映像をはっきり私が見たのは、福島へ行ってからの事になりました。
しかしながら、この日の経験は、
4月の2回目の大きな地震の時には、私にとってはとても有効な訓練になっていました。
荷物も持たず、家の鍵もかけず、一番大事なルナだけを抱えてすぐに逃げることで、
渋滞もなく、安全地帯まで行くことが出来ました。
シミュレーションではなくて、一度、動いてみることは大事だと思います。

今は、ルナも、私の足を枕に寝ることが多いです。
どこか傍に居て、触れていることの安心感なのでしょうか・・・・

あれから、温かいホットするものが食べたくなって、
昨日も、一人でしたが、TVで見たこんな物を作って食べました。
物への執着心が薄れ、人生観が変わり、
優しさ、穏やかさ、たわいのない日常がなんて素敵なことでしょう。

豆腐のトマトスープ
朝降っていた雨も上がり青空が顔を出しました。
昨日、発表されたニュースによれば、1000年おきに大地震が起こって、大津波が仙台を襲っていたという・・・
この先の1000年に、私達は何を残せるのでしょう。。。
