こころの染織

ひと針ひと針心を繕います。
第8章・・月あかりの散歩道・・・私とルナと一緒に月に想いを馳せて散歩しませんか~♪

あの日から、20回目の12月1日に寄せて・・・

2011-12-01 16:51:07 | memories

ルナです。


きょうから、12月・・・・
今年も、残すところ一ヶ月になったね。
多くのことがあった今年だったけど、今年の総決算、
楽しいことで締めくくりたいから、みんなで笑って過ごそうね。


ところで、今日は、どうやら、ママさんにとって、特別な日・・・・らしいんだよ。
少しだけ、ママさんの話を聞いてくれる?





アメリカン・ブルーです。

夫の今年の誕生日にも少し書きましたが、
今日は、ルナに代わって、もう少し、書かせていただきたい想いがあります。
長くなりそうですが、良かったら、お付き合いくださいませ。





1992年12月1日は小学校に入ったばかりの息子の初めてのマラソン大会の日でした。
あいにくの曇り空・・・・今にも雪でも降りそうな、
そんな空の日だったことを覚えています。

一年生は、校庭を一周走って、学校の外側を更に一周走るコースでした。
当時、あまり運動が好きではなかった息子でしたが、その日は、良く頑張りました。
なぜなら、夫が、息子の傍を掛け声をかけながら、一緒に走ったからです。


もしかしたら、これが息子と一緒に過ごす最初で最後のマラソン大会になるかもしれない・・・
そんな想いがあって、元陸上部のエースだった父親は、
回りの目も気にせずに、しっかりと、息子へエールを送りながら完走したのでした。


順位は、真ん中から少し遅れる辺りでしたが、私にはとても良く頑張ったと思える走りでした。
彼にとっても、今日、入院する父親を見送る応援歌のつもりだったんのかもしれません。


 


マラソン大会を見届けて、私達夫婦は、そこから、仙台市内の病院へ・・・・
36歳・・・その日が夫の闘病生活の始まりの日となりました。


9時までに手続きをしなければならなかったのに、マラソン大会を見届けてから行ったので、
すでに10時を回っていたことへ、看護婦さんからお叱りをもらいつつ、
8階内科病棟へ案内されました。
パジャマに着替えると、心電図を撮るからと、
看護婦さんが迎えに来て、夫は病室を出て行きました。


入れ替わるように、別な看護婦さんがやって来て、私を手招きするのです。
呼ばれるままに着いて行くと、そこには、主治医の先生と婦長さんが待っていました。
この時の主治医の先生が、あの、石巻で被災されたE先生なのです。


私はここで、初めて夫の病気の説明を受けることになりました。
現在は、病名は本人にきちんと告知して、そこから治療方針を決めるのでしょうけれど、
当時は、まずは家族への告知・・・そして、そこからどうするかという選択肢が一般的だったのです。
そこには、私が、それまで聞いたことが無かった病名があって、
それが何を意味しているのかも全く解らない、未知の世界への入口でした。

夫は、血液性のがんでした。
先生は、病名を伏せようか?と言いましたが、その時すでに、夫は、書店で医学書を読みあさり、
しっかり自分で病名を決めての入院だったので、
「隠し通せないので、はっきり伝えて、そこから頑張りたい」
私はそう話しました。
それでも、先生は、「悪性」という言葉は、今は外しておこうか・・・・
そう言って、私もそれにうなずきました。


決してここでは泣いてはいけない・・・・しっかりしなくてはいけない・・・
本当の悲しみや、驚きや、心が壊れそうな時は、人は涙が出ないものだと思いました。


最後に、私は、生存の確率を先生に聞きました。
少しの沈黙の後に、60%・・・と先生はおっしゃいました。
きっと、本当は5分5分、と言いたかったと思います。
まずは、2年を目標に頑張ろう!!
2年頑張れたら、5年、頑張れる・・・・そう信じて。。。


先生とそう話して、立ちあがった私を、
ずっとそこで付き添っていてくれた婦長さんが、ぎゅ~っと抱きしめてくれました。
その時、ようやく、私の目から、とめどなく涙が流れて止まりませんでした。
「私達は、患者さんの家族の心も看護しますよ。一緒に頑張りましょう!!」
そう言ってくださった婦長さんの優しさがこらえていた私の心の蓋を開けてくれたのかもしれません。


 



外は、もう、細かな雪が舞い始め、12月の寒さが身も心も震えさせるようでした。
泣いた顔のまま、病室へは戻れない・・・・
30分ほど、病院内をウロウロしてから病室へ戻ると、夫はもうベッドに横になって待っていました。


「先生はなんて言っていた?どれくらいの生存率だと・・・・」
こわばった顔で私にそう尋ねた夫に、どう答えようか・・・・一瞬の判断で、
「70%だそうよ!!大丈夫。必ず私が助ける!!」

夫に少し、嘘をつきました。
五分五分がいつしか7割まで上昇したことで、夫も、いくらか穏やかになってくれました。
「お前は運が悪かったとあきらめてくれ。
でも、息子は、そうはゆかない。。。
せめて、中学生か高校生なら、あきらめもつくが・・・・」


それから、私は、病院から歩いて20分ほどの電気屋まで夫に頼まれて、
小さな液晶TVを買いに、病院を出ました。
広瀬川にかかる大きな橋を渡って行くのですが、橋のたもとから見た景色が、
全くの彩りを失った、無彩色の広がりだったことは、今でも忘れることが出来ません。
生きてきた中で、一番辛いと思った瞬間でした。
まるで、私達の前途を見るようだったからです。


 



その日から、8ヶ月・・・5ヶ月・・・4ヶ月・・・1ヶ月・・・・
4回の入院と、数えきれないほどの外来治療。
症例少ない最新治療や治験にも参加し、
決してあきらめない夫の闘病生活は、ひたすら息子への父としてのすべてでした。


時は、そうして、いくつかの波を乗り越えて、
きょう、私達は、その日からなんと20回目の12月1日を迎えることが出来ました。
翌春に「最後の花見」をしようと、船岡へ一目千本桜を見に出かけてから、
来春には、20回目の花見を予定しております。
今年も、震災や原発の不安の中も、福島の花見山で休むことなく「最後の花見」を決行した私達です。


夫の体は、おそらく、私が想像する以上に壊れていると思います。
でも、その精神力とゆるがなかった息子への責任感と、
「決してお義母さんより先に逝かないで・・・」
私の願い通り、頑張り通した夫は、今年1月、母を見送りました。


毎年、この日が来ると、あの荒涼とした景色と壊れそうだった想いが蘇るけれど、
もう、そこから解放されて、
20回目の12月1日を、笑って過ごしている事として、
今できること、今だからやっておきたいことに気持ちを置き替えて、
明日から、数える事のない未来へ繋げて行きたいと思います。


私の心の整理にお付き合い頂いて、ありがとうございました。
息子にも、あの日のことを話した事がありませんでした。
こういう形でも、ここへ気持ちを書き込んで、
長い年月の苦しかった記憶をそろそろ閉じようかと思っています。
もう、笑った記憶の方が絶対多くなったから。


 



ママさ~ん  そんな遠い記憶がずっとママさんの中にあったんだね。
でも、2年頑張ったら5年過ごせるんだったら、
20年頑張ったら50年過ごせるんじゃないの?  


 そうだね~


パパさんの病気の根源、ガン細胞さんも、もう、20年もパパさんと一緒に暮らして、
成人するくらいになったんだから、今まで見たいにやんちゃなことせずに、
落ち着いて、人に迷惑をかけず、大人としての慎みある行動を期待したいよね。


パパさんは、もう、疲れた~
もう充分生きたし、今が一番幸せだから、これで良い・・・・
そんなこと言っているけど、ルナは、まだまだ、パパさんに遊んでもらいたいし、
いろんな所へ行きたいなぁ~


パパさんは、400mの中距離ランナーだったらしいけれど、
それって、どこで全力疾走するか、考えながら走るのかもしれないね。
お兄ちゃんのマラソン大会の日から始まったパパさんの大きな大きなマラソン大会は、
定年は延長されるし、新薬は開発されるし、
二代目ルナの真打登場でますます距離が伸びそうだね。
パパさん、毎日お疲れ様・・・・
今日から、少しゆっくり仕切り直し、よろしくね~


 



コメント (38)
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