あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

夏の終わりに

2010-08-21 21:54:50 | インポート

 高校野球も沖縄代表の興南高校の優勝で幕を閉じました。これで、今年の夏も終わりといった思いになった人も多いのでは・・・?毎年の恒例の行事でありながら、ひたむきで一生懸命なプレーに感動しながら、球児たちからすばらしい夏の思い出をもらったような気がします。春夏と連覇し、沖縄県に初めて優勝をもたらした興南高校には、心から拍手を送りたいと思います。

 一方、プロ野球に目をやると、我が楽天ゴールデンイーグルスはなかなか調子が上がらず、最下位から浮上できない状況にあるようです。いいゲームはしているのですが、なかなか勝利に直結しないようです。Jリーグのベガルタも同様で、J2への降格圏内脱出までには至らないようです。『苦あれば楽あり』のように、今はじっと試練の時なのかもしれません。この苦境を乗り切る先に、楽となる良い結果が待っているような気がします。災いが転じて福となるよう、応援をしっかりと頑張っていきたいと思います。

 今日、病院で入院患者の子どもたちが記念撮影している場面を見ました。子どもたちの表情は明るく、全員ピカチュウのお面をかぶり、笑顔でポーズを決めていました。中には、点滴を受けたままの子どもさんもいました。どの子の笑顔も、全快し退院できる時のさらにすてきな笑顔につながっていくようにと心から思いました。もうすぐ夏休みも終わり、新たな学校生活がスタートしますが、病院でのスタートを余儀なくされるお子さんもいることと思います。一日も早く災いが福と転じて退院できるといいのですが・・・。

     過ぎゆく夏の中に その子は どんな思い出を 見出すのだろうか

     病室の窓の向こうに広がる青い空を見つめながら

     限りない空の端から端まで駆けまわる自分を 夢見るのだろうか

     想像する世界に 枠はない

     だから 自由に 思う存分 駆けまわってほしい

     

     

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑仕事を通して

2010-08-20 09:08:19 | インポート

昨日は、半日ほど農作業に取り組みました。草取りと草刈りが中心でした。それにしても、暑い日が続いているのに、草たちのたくましさには圧倒されます。それに負けじと汗をかきかき草取りをしていると、時折快い風が吹き抜けていきます。さわやかな風の感触を感じたその瞬間に、生きているんだなあと実感します。体の内から込み上げてくる爽快な感覚です。汗をいっぱいかくような作業をしている時に、そんな爽快感をしばしば感じることができるようになってきました。

作業をしていると、いろんな虫に出会います。カマキリ、コオロギ、バッタ類、クモ、ミミズ等あわてて逃げ去る姿を見かけます。アゲハやモンシロチョウ等、そばに寄ってくる虫もいます。特にアゲハについては、幼虫時代の観察を続けていることもあって、親しみを感じながらながめています。

草を取り終わった畑の土の上に、あおむけになって死んでいるアブラゼミを見つけました。大の字になって、堂々と往生したような、その潔い姿に心を打たれました。この夏を精いっぱい生きたといった満足そうな姿でした。おもわず手を合わせていました。

今、秋からの畑の設計図を考えているところです。いろんな野菜が少しずつ時期がずれて収穫できるようにしていきたいと考えています。というのも、現在同じ野菜が集中的に取れすぎて、毎日食べても追いつかない状況にあるからです。<種をまきすぎたという反省点もあるのですが>

素人農業のため、できた作物の形も不格好なものが多いのですが、その日に収穫しその日に食べる野菜の味は、格別です。入院している妻のもとに、今日はエダマメとミニトマトを届けたいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親子の温かい笑顔を見て

2010-08-19 08:19:10 | インポート

高速道路のパーキングで、『パパ!』と声をかけられたような気がして振り向きました。幼い女の子と母親が笑顔で、すれちがった若いパパに呼びかけていたのです。パパがそばに行くと、娘と母の笑顔は、こぼれんばかりです。娘をさっと抱き上げた時のパパの笑顔も最高でした。親子三人の温かい心の絆を感じる一コマでした。

昔のことになりますが、自分が若いパパだった頃を思い出しました。初めて『パパ!』と呼ばれた時の感激。我が子の首がすわるようになった時、ハイハイができた時、つかまり立ちができた時、言葉が言えるようになった時、本を読めるようになった時、それぞれ成長の節目で感じた感動。妻とともにその成長の喜びを共有できたことを、うれしく そして なつかしく思い出しました。

仙台市の本屋で、『お母さん、だあい好き!』という子どもの声が聞こえ、声のする方を見ました。お母さんを下から笑顔で見上げる子どもと その子を優しい笑顔で見つめる母親の姿がありました。つなぎ合うその手に、母子のこれまでの温かくて深いつながりを感じました。

先日の天声人語で、歌人:河野裕子さんの作品が紹介されていました。その一つに次の短歌がありました。

『朝に見て 昼には呼びて 夜は触れ 確かめをらねば 子は消ゆるもの』

わが子への切々とした思いが伝わってきます。母親だからこそ抱くことできる、かけがえのないわが子を慈しむ熱い思い(愛)なのだと思います。二児を育児放棄という形で死に至らしめた母親に、事が起きる前に読んでもらいたかった歌でもあります。

愛されたことを覚えている人は、愛を与えることもできる人だと思います。小さい頃から親の愛の中で育った子どもは、やがて自らが親になった時に同じように愛を与える親になっていくのではないでしょうか。命のリレーと同様に、愛もリレーのように人から人に引き継がれていくものなのかもしれませんね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命のリレー ということ

2010-08-17 09:06:36 | インポート

8/17付の天声人語は、臓器移植に関する内容でした。その中に「命のリレー」という言葉が出てきます。心に響く言葉で、その説明の文言も心に残ります。

『一つの喪失が一つの再生をもたらす臓器移植は、命のリレーといわれる。いわば涙の水彩で花束を描き、見知らぬ家族にささげる行為である』

最愛の人を失った遺族の悲しみ、その悲しみの涙で描かれた花束は、受け取る側が引き継ぐ心のリレーなのかもしれません。提供した人が愛された分だけ提供された者も愛され、その命が引き継がれていくようにと・・・。

腎臓移植を受けた女児の母親が提供者の家族に送った言葉 

    ~ 『命を確かに引き継ぎました。お陰で娘は元気に小学校に通っています』 ~

この言葉は、提供した遺族の涙で描かれた花束をきれいな本物の花束にしてくれるような言葉だったと思います。最愛の人の命が新たな命となって生きていることをうれしく感じたことと思います。

3年間の透析生活を脱した女児は、神様にもらったと信じているそうです。

ドイツで移植を待ちながら亡くなり、提供者に転じた少年のことも書かれていました。その11歳の少年は万が一の覚悟を問われ、

「ぼくは人からもらわないと生きられない。使えるもんは何でもあげる」 と言っていたそうです。

その子の辛さと覚悟に心が打たれます。命のリレーを誰よりも体感していたのかもしれません。その子の親は、息子の臓器移植で救われた同世代に

『誰に何の遠慮もなくすくすくと成長してほしい』 と言っています。

提供を受けたことを負い目と考えず、普通の子どもと同じようにすくすくと成長してほしい・・・息子への思いと重なる願いを強く感じます。

残された遺族の方は、命のリレーが行われることで、最愛の人が新たな命となって生きていることを感じておられるのかもしれません。

改めて臓器提供を通した命のリレーに対して、自分がどうかかわっていくかについて、じっくりと考えてみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理想的な病院について思うこと

2010-08-15 20:27:58 | インポート

夕方病院に行くと、紺の作業着を身に付けた清掃スタッフ皆さんが、手際良く掃除している様子を見かけます。医療に直接かかわらなくても、病院の清潔な環境を維持するために、多くの人達が働いていることを実感します。

また病院内にある施設も、売店やパン屋さん、食堂、喫茶店、郵便局、理容施設等が充実しており、小さな町のような開放感があります。また各階の病棟には、食堂や雑誌等の置いてある待合室があり、そこで患者と面会したり、食事を共にすることもできます。

何より病院らしくないのは、匂いです。病院らしい消毒の匂いが一切しないのです。

中で働くスタッフの皆さんもすばらしいのですが、環境面でもいろいろな配慮が行き届いていることを強く感じます。

父親が病院で亡くなったこともあり、私としては病院に対してあまり良い印象は抱いていないのですが、その病院と現在妻の入院している病院との環境面や人的な面での大きな差異を感じます。

病院には、病気を治すという大切な役割があるのですから、病人にとっても、病気であることを忘れ、健康時の日常的な感覚を体感できる環境が必要なのではないかと考えます。

さらには、患者自身が自分の病を治そうとする意志を強く持つことのできる、病院スタッフの声掛けや働きかけを強く期待したいものです。

病院は、病気をなおすところ。健康を取り戻しに行くところ。元気になるための中継基地と考えることのできる場であってほしいものです。

ただ、病院嫌いの私は、それでも患者となって病院に行く気力は、今のところありません。

その病院の天井が開閉できる構造で、青い空を直に見上げ、さわやかな風を肌で感じることのできるような環境であれば、別ですが……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする