生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。

31.鉄人退治と越智益躬
(三嶋神社・登畑・本殿 流造・鳥居 鹿島型)

今より、一千三百年位前、三韓(朝鮮)に鉄人と名のるとても強くて悪がしこい武将がいた。
鉄人は三韓の兵8千余騎を従え、勢い乗じて筑紫の国(九州)に攻めてきた。

日本軍も防戦したが、包囲したと思うと風雨の術を使って迷わすと言う有様で、手のほどこしようがなく、各地で大敗し多くの戦死者を出した。
筑紫の国で猛威をふるった鉄人は、更に都の方へ攻め上がろうとする気配をしめした為、早速、朝廷の命により、文武両道に秀でた、この地の越智益躬が討伐の将として遣されることになった。

とりあえず益躬は、七日七夜、三嶋神社にこもり祈願した所、「鉾を鏃にして隠もち、鉄人のすきをみて討て」との神託がありました。
いざ鉄人に向かってみると、うわさ以上に荒っぽく、武力では到底勝ち目のないことを知り、そこで益躬は、わざと鉄人の家来になり、日夜、そのすきをうかがいましたが、用心深い鉄人には殆どすきがみあたらなかった。

やっとの事で鉄人の足のうらにわずかな穴があいているのを見つけた。
そして、ある時、鉄人が周囲の景色にみとれ油断していたのを、三嶋神社の御示現とばかりに懐に隠しもっていた鏃を投げつけ、うまく命中させて討ち取り勢いに乗って、三韓の兵を打ち破った。

益躬は討ち取った首を手にし、宮中に参上し、朝廷に鉄人のことについて奏上した。
朝廷は非常に喜ばれ、益躬に越智郡の大領(長官)を任じた。

そして益躬は、高市群に大山祇神を勧請し、赤、青、紫の美しい織旗を宮のまわりに立て、勝ち戦を祝ったという。

その後、社殿は天正頃に現在地に移したと伝えられている。

益躬は又、若い頃より仏教を深く信仰し、昼は法華一部を必ず経し夜は念仏を唱えることを怠らなかった。
「今昔物語」の中の「伊予国・越智益躬往生物語」には次のように書かれている。

西の方に向かって端座し、手を合わせて念仏を唱えながら、この世を去ったが、その時、村人達は空に微妙な音楽が奏でられたのを耳にし、又何とも例えようのない香ばしい薫りが家々に満ちあふれたとか、この余りにも不思議な出来事に村人達は非常に感激し、涙を流して敬意を表したという。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。

31.鉄人退治と越智益躬
(三嶋神社・登畑・本殿 流造・鳥居 鹿島型)

今より、一千三百年位前、三韓(朝鮮)に鉄人と名のるとても強くて悪がしこい武将がいた。
鉄人は三韓の兵8千余騎を従え、勢い乗じて筑紫の国(九州)に攻めてきた。

日本軍も防戦したが、包囲したと思うと風雨の術を使って迷わすと言う有様で、手のほどこしようがなく、各地で大敗し多くの戦死者を出した。
筑紫の国で猛威をふるった鉄人は、更に都の方へ攻め上がろうとする気配をしめした為、早速、朝廷の命により、文武両道に秀でた、この地の越智益躬が討伐の将として遣されることになった。

とりあえず益躬は、七日七夜、三嶋神社にこもり祈願した所、「鉾を鏃にして隠もち、鉄人のすきをみて討て」との神託がありました。
いざ鉄人に向かってみると、うわさ以上に荒っぽく、武力では到底勝ち目のないことを知り、そこで益躬は、わざと鉄人の家来になり、日夜、そのすきをうかがいましたが、用心深い鉄人には殆どすきがみあたらなかった。

やっとの事で鉄人の足のうらにわずかな穴があいているのを見つけた。
そして、ある時、鉄人が周囲の景色にみとれ油断していたのを、三嶋神社の御示現とばかりに懐に隠しもっていた鏃を投げつけ、うまく命中させて討ち取り勢いに乗って、三韓の兵を打ち破った。

益躬は討ち取った首を手にし、宮中に参上し、朝廷に鉄人のことについて奏上した。
朝廷は非常に喜ばれ、益躬に越智郡の大領(長官)を任じた。

そして益躬は、高市群に大山祇神を勧請し、赤、青、紫の美しい織旗を宮のまわりに立て、勝ち戦を祝ったという。

その後、社殿は天正頃に現在地に移したと伝えられている。

益躬は又、若い頃より仏教を深く信仰し、昼は法華一部を必ず経し夜は念仏を唱えることを怠らなかった。
「今昔物語」の中の「伊予国・越智益躬往生物語」には次のように書かれている。

西の方に向かって端座し、手を合わせて念仏を唱えながら、この世を去ったが、その時、村人達は空に微妙な音楽が奏でられたのを耳にし、又何とも例えようのない香ばしい薫りが家々に満ちあふれたとか、この余りにも不思議な出来事に村人達は非常に感激し、涙を流して敬意を表したという。
