別用があって通り掛かりました。坂の下り口に説明板が有ります。何度も通った路です。いつもは下り坂に向かう勢いで素通りしていました。

読みます。「下瀬坂 この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。」
この説明が、長年何かのきっかけの度に思い出していた記憶にジャストミートしました。ちょうど今、NHKで「坂の上の雲」が再放送されています。小説を読んだのは30歳代の初めでした。色々なシーンが記憶に残っていますが、「下瀬火薬」も印象深く残っています。

「バルチック艦隊との戦いで使用された日本海軍の砲弾は、諸外国のそれのように、鋼板を貫通して内部で爆発させるのではなく、甲板で破裂して高温の炎を発し、一面を焼き払って兵を焼死させ、戦闘能力を奪うことを目的としていました。その敏感さたるや、海面に当たっても爆発して高熱を発する」と記憶しています。凄いな、と思いました。酷いな、とも思いました。財力に乏しい開花期の日本が発明した弾薬です。 ここが、その火薬を発明した場所だったのです。記憶が現地と繋がりました。
引き返して周辺を探索します。今日の目的にも叶うと思いました。広場が在ります。初めて踏み入れます。敷地が土じゃない公園です!

「西ヶ原みんなの公園」です。

ここに、「東京外語大学西ヶ原キャンパ跡地」の石碑が有ります。つまり、この界隈が「海軍下瀬火薬製造所」の在った場所です。

向かいには、「武蔵野学院」が在ります。下瀬火薬製造所が在った場所は、その道路のこちら側だと思います。


坂に向かいます。この辺りも製造所の敷地だったのではないでしょうか?

現在は「飛鳥晴山苑」という老人ホームです。

隣は「高齢者あんしんセンター」です。「下瀬の小径」との表示が有ります。後で知ったのですが、この先にエレベーターがあって、下の公園(西ヶ原みんなの公園)と繋がっています。構造的に、下が公園の中心地です。

高齢者あんしんセンターの前を坂に向かいます。

下瀬坂を、スピードに乗って下りました。

坂の下は広い公園です。

広大な「西ヶ原みんなの公園」です。時々、トイレを使います。

この話、続きます。