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荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

茅の輪くぐり

2015年06月30日 | 散文
梅雨時は、夏越の祓の季節でもあります。

根津神社を訪ねると「大祓・茅輪神事」の案内がありました。

楼門の向こう、唐門前に環が見えます。



本番を明日に控えてすっかり準備が整っていました。



綺麗な「真円」です。
私のふるさとの氏神さまにも同じ行事があり、「環越しさん」と呼んでいました。
人手不足で行事の継承が危ぶまれるなか、現在も続けられているようです。

我が氏神様の「環」はいつも歪んでいました。
同じように、左右に柱を立てて、輪を吊り下げているのですが、円より四角に近く、そう、トーストパンの外周状態でした。

改めて根津神社の茅環を見るに、「真円」だとありがたさを感じます。
拝殿から楼門を振り返ります。

ありがたさが増します。

こちらは赤坂日枝神社の茅環です。
やっぱり「真円」です。

神事も見た目が大事です。
柔らかい真ん中だけを食べて残された「トーストパンの外周を吊り下げたもの」では信仰心が起りません。

今ふるさとでは、老幼友達が神社総代を務めており、氏神様の催事一切を取り仕切っています。
遠くふるさとを思う氏子として、彼に「前例に拘ることのない改革」を進言しようと思います。

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芸予要塞跡(小島)へ行く-3

2015年06月29日 | 散文
昨日の続きです。

<中部砲台跡>
案内板の記載内容
「小島の芸予要塞の中核をなす中部砲台は、この要塞の主砲である28cm榴弾砲6門が配備されていたほか、地下室や井戸、井戸水の浄化装置などが造られ、山頂には指令台が設けられていました。


28cm榴弾砲は、角度をつけて発射された砲弾が放物線を描いて飛んでいく大砲で、海上からは見えない構造となっています。


小島の要塞は、この場所で実戦に使われることはありませんでしたが、明治37年(1904年)の日露戦争時には、中部砲台の榴弾砲2門が旅順に運ばれ、旅順攻略に活躍したといわれています。


現在では、榴弾砲の台座が残るのみでありますが、赤レンガ等で造られた施設とともに貴重な遺構であり、当時の緊迫した様子を知ることができます。


砲座跡奥の階段を山頂へ上がった指令台跡からは来島海峡の素晴らしい眺望を満喫することができます。」



(地下室跡)



(地下兵舎跡)



司令塔跡へ行ってみます。



急角度の石段を登ります。



石段の上に、また石段が続きます。



振り返ってみました。

兵隊たちはこの石段を駆け上がったのでしょう。

まだ石段が続きます。



頂上が見えてきました。



ここが小島要塞の中枢である指令塔です。



島の四方を見下ろせます。



梅雨空の来島海峡の景色です。









抜群の眺望ですが、当時の国防の緊張が伝わってきます。



司令塔から中部砲台を見下ろします。



船に乗る時間なので今日はここまでです。
波止浜からママチャリで実家に帰る時間が必要です。
今度の船を逃すと、2時間待たなければなりません。

小島の漁港脇を通って、桟橋へ向かいます。

馬島からの船がやって来ました。



船が「プー!」と汽笛で乗船客の有無を問いかけます。

桟橋から手を振って応えます。

こちらに向かって来ました。



乗船客は私だけです。



例の如く、舫い綱を使わないで、船首が桟橋から離れないように、且つ着け過ぎて船や桟橋を傷つけないよう、操船します。

荷物の積み下ろしで時間が掛かる場合は綱を使うそうです。

馬島からの客も乗っていません。
この船の客は私一人です。
小島としまなみ海道を振り返ります。

北砲台地区は再度来島して散策します。
今日はここまで・・・。

次回に続きます。


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芸予要塞跡(小島)へ行く-2

2015年06月28日 | 散文
昨日の続きです。

弾薬庫跡へ進む道です。



(弾薬庫跡)
案内板の記載内容
「弾薬庫跡は、現在のように山の斜面を掘り下げて、深い谷間のような窪地とし、周囲は山肌で護られています。
当時のモッコとスコップを用い、人力でのこのような工事は並大抵のことではありませんでしたが、危険な弾薬を貯蔵するために周囲には強力な防壁が必要でありました。


小島の地質は閃緑岩系の岩石で、東側に斑レイ岩が部分的にあります。
何れも有色鉱物が多く、岩盤が柔らかいため、要塞工事には都合がよかったであろうと想像されます。


小島砲台の備砲は、28cm榴弾砲、24cm加農砲などで、主にそれらの砲弾を備蓄するための弾薬庫であったと思われます。
現在は、屋根が落ちてレンガ造りの壁面が残るだけでありますが、弾薬という一番大事なしかも危険度の高い軍用品を貯蔵するために、非常に厳重な工事と完璧な設備が施されたことがわかります。」





弾薬庫から見た風景。
出入り口には、こんな大きな樹がありました。

時の流れを感じます。

更に、椿の道を進みます。

散策路に沿って椿が生えています。
花の季節の訪問が好いと思います。

中部砲台跡に向かいます。



この辺で次回に続きます。
次回は当要塞の中枢部です。
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芸予要塞跡(小島)へ行く-1

2015年06月27日 | 散文
子供の頃から、今治沖の小島に要塞跡があると聞いていました。
今回の帰省で行ってみようと思い立ちました。


(各種資料要約)
小島は、明治35年に芸予要塞が置かれた島です。
日露戦争に備えて造った施設です。
島内には、ロシア艦隊迎撃に備えて造られた砲台、弾薬庫、司令塔等々の施設が保存されています。
南部、中部、北部の3か所に砲台が築かれ、中部砲台に設置された28cm榴弾砲6門をはじめ、加農砲、速射砲などが備えられていました。
明治37年2月に日露戦争が勃発し、国内の海岸要塞から28cm榴弾砲が旅順等に送られました。
小島から送られた6門のうち2門が、旅順要塞攻撃に使用されました。
芸予要塞は大正13(1924)年に廃止されたのち、当時の波止浜町に払い下げ保存が図られたことから、要塞としての実質的期間が短く、結果として、全国的にみても日露戦争前の要塞としての状況を今日まで良く残しています。

全島要塞化しており、多くの施設がある為(定期船の運航時間の制約もあり)、2日に亘って訪問しました。
報告も数回に分かれると思います。

船は、前回報告した、波止浜から来島を経由して渡ります。

小島の全景です。
三つの山が、それぞれ南部・中部・北部の要塞です。

小島港に着きました。

乗客は、1日目/私とお婆さんの二人、2日目/私と釣り人の二人です。

いきなり、28cm榴弾砲が迎えてくれます。

これは、レプリカです。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の撮影の為、当時の資料をもとに忠実に作成されたものです。
松山市が譲り受けたのち、ゆかりの地、小島に設置したものです。

この台座を記憶していたので、この後砲台を見学した時にその構造等が推察でき、大いに役立ちました。

(砲手でしょうか、猫が座っていました。)


<南部の施設>
(探照灯台跡)
説明板を読みます。
「探照灯跡
石の階段と赤レンガで築かれたこの探照灯跡は、北部砲台の探照灯とともに、芸予要塞の一翼である小島砲台の重要な機能であります。
探照灯(サーチライト)は、夜間に海峡を往来する船舶を確認するための照明で、一説には灯火は波方町の大隅の鼻の岩場まで照らしていたといわれています。

今は台座の施設しか残っておらず、探照灯がいつの時期に撤去されたかは資料も残っていません。
先の灯台(黒灯台)付近は、浅瀬で干満時には川のように流れる潮流が見られます。
向かいの波止浜湾ではこの自然の干満差を利用して塩田や造船業が発達しました。」

内部の様子。



探照灯台上部の様子。



「発電所跡 南部砲台跡」へ向かいます。



(発電所跡)
この島の赤レンガの施設は英国式工法で建てられたものです。





所々展望が開けて、瀬戸内海としまなみ海道の景観も楽しめる散策路です。



<南部砲台跡>
説明板の記載内容
「この南部砲台は、小島の中で一番南側の砲台で規模は小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する位置にあります。
当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジアへの侵攻に対して、国内の沿岸に防衛体制として要塞の配備を進めました。
石垣の石は、当時1個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島要塞の全構築費用は、当時の金で30万円であったといわれています。

砲台の設計図は、陸軍工兵大佐上原勇作(後の上原元帥)によって作成されました。
整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900年)に終わったとされています。
大砲の据え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地域住民にも守秘を強いていました。
南部砲台跡には、竣工当時は軽砲(12cm加農砲)2門が備え付けられていました。
現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみであります。」



(砲座跡)



(地下室跡)
ここだけでなく、砲台ごとに地下室があります。







弾薬庫跡へ向かいます。


今日はここまで。
・・・次回に続きます。




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来島海峡

2015年06月25日 | 散文
今治市波止浜にある造船所の風景です。
建造トン数日本一の町です。

目の前では船底の部分が2基造られています。

建造中の船の向こうに小さな島が見えます。

あれが「来島」です。

パンフレットがあります。
ここが、日本で一番潮流が早い来島海峡由来の島です。

同時に、来島村上水軍の根拠地でもあります。

大浦(陸側、パンフを参照願います)のバス亭前堤防越しに見た来島です。

このように小さな島です。

実は小島の「芸予要塞跡」を見に行く予定ですが、途中にある来島に触れない訳には行きません。

灯明台の向こうにある建物の自販機で切符を買います。

自販機横にある船の時刻表です。

来島まで僅か5分で着きます。
運賃は140円です(今日は上陸しませんが)。

ここから乗船します。



来島からの船が着きました。
一人だけ下船します。
この船が、折り返します。

出港時間はマチマチで、大体1時間強に1本のペースです。

出発時間を見計らって乗船しました。



乗客は私ともう一人だけのようです。

私は船室に入らないで甲板のベンチに座ります。

出発です。

船が離れます。

右手に造船所を見ながら、



更にしまなみ海道を見ながら、



来島に向かいます。



凪ぎの海から見る来島はモンサンミッシェルのようです。



港に近づきました。
村上神社があります(位置関係はパンフを参照願います)。



船は桟橋に近づくと「プー!」と汽笛を鳴らして、船の到着を知らせます。

桟橋には誰も居ません。
もう一人の乗船客もここでは降りないようです。

船は着桟しないで、次の港「小島」に向かいます。
その次の港は「馬島」です。

「瀬戸の花嫁」の歌詞のように、島から島へと渡って行きます。



さて、帰りのこと。
客は私一人です。

潮が流れています。

来島の港に近づきました。
「プー!」と合図するまでもなく、桟橋に客が待っています。
船は桟橋に近づきましたが、着桟しないで離れて行きます。
思わず、「え!?お客さん居るよ」と船員に言ってしまいました。
船員は「潮に流されて失敗したけん、やり直すんよ」とのこと。
船長も桟橋の客も笑っています。

桟橋に船首から着け、舫い綱で結ぶでもなく、客が乗り込んできます。
客が乗り込む間、船は潮の流れの中で、その位置をキープします。
「凄い!」
またもや声が出ました。


たった一人のお客さんを乗せて離桟します。

彼は、2日後、私が波止浜で乗船する際に下船して来ました。
2日後に逢う人の後姿を撮っていました。奇遇だなあ。

潮流の中、来島を離れます。



振り返ると、しまなみ海道が靄っています。

次回の帰省時に訪問(上陸)する所ができました。


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石風呂へ行く

2015年06月24日 | 散文
今回も帰省時の報告です。

木々の緑が太陽を遮って暗くなった、切り通しの向こうに小屋が見えます。



ここが「石風呂」です。
昔の夏の保養所です。
子供の頃、母の実家の祖父、伯父家族と来た記憶があります。

生家は保養に来られるような経済事情ではありませんでした。
少し大きくなってからは、よく釣りをしに来ました。

(案内板の説明内容)
文化七年(1870年)に「膳藩後学 中川安世済美 撰」の文章が掲示されていますが、難しい(非当用漢字が多く、そのまま写して書くのが)ので、もう一方の案内板を紹介します。

「石風呂 
この石風呂は、平安の昔、弘法大師が石窟を開いて里人の病気を治したのが始まりといわれ、近郷の人ばかりでなく、はるばる京都から、公家や高僧が業病・難病の治療に訪れたといわれています。
岩にできた自然の横穴を利用した約50㎡の洞窟の中でシダを焼き、その上に海水を浸したムシロを敷きつめ、穴にこもった蒸気と熱で体を温める、いわば天然のサウナです。
神経痛のほか美容にも効くとあって、7月中旬から8月中旬までの開設期間には、多くの入浴客でにぎわいます。」

汗をかいた後は、この出入り口から、


この海に入って汗を流し、体を冷まします。

沖には、平地島と小平地島が見えます。
堤防では釣りをしています。

反対側の浜でも釣りをしています。
子供の頃よく釣れる浜でしたので、今でも人気があるようです。

ここに来る間の浜でも、平日にも関わらず、数人が釣りをしていました。
中には、テントを張った夫婦連れも居ました。

石風呂の上に、お堂があります。



50年振りくらいで登ってみます。

新しく石段が造られています。

途中に、昔活躍した地元の政治家の名前がありました。

もう故人になっていると思います。

お堂から見下ろした風景です。



先ほどの堤防と、右端手前に石風呂の「プライベートビーチ」が見えます。



石風呂の施設の全容を見下ろしています。
向こうに見えるのは納涼席兼簡易宿舎です。

行ってみます。

こんな風に納涼席兼簡易宿舎が並んでいます。





ちょっとした湯治場の雰囲気があります。



共同炊事場もありました。



石風呂を振り返った風景です。
のんびり感が漂っています。

ちょっと好いでしょう?

カニが巣穴に入ろうとしています。
好い所でしょう?

この好い所が、6、7年前に閉鎖されています。


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道後温泉に入る

2015年06月23日 | 散文
前回4月に帰省した時、道後温泉/本館の玄関で写真を撮っただけで帰りました。
その際、本館の耐震改修工事が予定されている事を知り、次に来る時には入浴しようと決めていました。
伊予鉄/道後駅からまっすぐ道後温泉/本館を目指します。
商店街の向こうに本館が見えてきました。



木造3階建ての建物です。
左手奥の3階が「ぼっちゃんの間」です。

平日なのに、前面道路は観光客で賑わっています。

入浴券を買います。
「霊の湯三階個室」コース(1550円)にしました。

内容:霊の湯・神の湯に入浴、又新殿を見学し、3階の個室で休憩。
1階に「神の湯」、2階に「霊の湯(たまのゆ)」があるそうです。
   「神の湯」は男性浴室のみ2か所浴室があります。
   「神の湯」と「霊の湯」の違いは使っている石の程度ですが、「霊の湯」の方が人が少ない為ゆったり入れるそうです。
   このコースは全ての浴室に入る事ができます。

玄関の様子です。
靴を下駄箱に入れて、輪ゴムのついた鍵を手首に嵌めて上がります。
一般の銭湯と同じです。

これから先は限られた場所以外の撮影は禁止となります。

3階の個室に案内されました。
階段を上がって一番奥の、玄関上の部屋です。
「霊の湯三階個室」コース客は「ぼっちゃんの間」を見学できます。
私の部屋の隣りです。

中居さん(?なんて呼べばいいのでしょう)の説明もそこそこに、クローゼットがあるにも関わらず、荷物を置いて見学に行きます。


「ぼっちゃんの間」です。
他に見学者は居ませんでした。
ここは撮影できます。

部屋の中の様子です。

やっぱり夏目漱石関係のものが飾られています。



縁側があります。



欄干から身を乗り出して、先ほど来た商店街のアーケードを見下ろします。

観光客が見上げています。

自分の部屋に戻って入浴の支度をします。

この部屋の使用時間は80分です。

「霊の湯三階個室」コース客は、一般客と同じの藍染め、又は鴇色から浴衣を選べます。
鴇色にしました。

準備を終えるとブザーを鳴らして、中居さんに浴室まで案内してもらいます。
これから先は、撮影できません。

ゆっくりと「霊の湯」に入って体を洗い、慌ただしく「神の湯」に浸かり、番頭さんの説明を受けて新殿を見学しました。
新殿では、皇族の浴室及び待合室とトイレ等の見学です。
皇族の利用は、大正天皇と昭和天皇が、合わせて3回だけとのこと。
ちなみに、立派なトイレは一度も使われていないそうです。
近年皇族の訪問が無いのは、本館以外のホテルでも温泉を引けるようになったので、ここまで来る必要がなくなったとのこと。

部屋に帰ると、お茶とぼっちゃん団子の接待を受けます。

更に、絵葉書のサービスがあります。
宛先、コメント等を書いて部屋に置いておくと、切手を貼って出してくれます。

火照った体を冷ます為に、縁側に出て、暫く浴衣で涼みます。

簾越しに、道後の街を見ながら・・・。

個室側の縁側です。



縁側から見た風景です。
浴室の天井です。



向こう正面が道後駅、右手が商店街です。



縁側から見た部屋の内です。

姿見に、西日を通した丸障子が映っています。

汗を流して、体を冷まして、さっぱりしました。

さあ、呑みに行きます。

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しまなみ海道を走る/大島

2015年06月22日 | 散文
靄った来島海峡を見ながら、しまなみ海道を走ります。



大島が近づいて来ました。



降り口です。

少し、海上へ投げ出されそうな恐怖感があります。

あのスパイラルを降りて行きます(帰りは登ります)。



到着後、大島から見上げました。



大島港です。





ちょっとだけ島内を走って、宮窪町から見た下り坂の景色です。



道の駅「よしうみいきいき館」で昼食を食べました。
観光バスが数台来ていて賑わっていました。
好きな食材を選んでの「海鮮バーベキュー」が名物です。

帰りの登りスパイラルから見た風景です。
潮が動き始めました。
潮流が発生しています。



向こうが馬島です。

慌ただしく帰ります。

次回はゆっくり来たいと思います。

何たって通行料が無料ですから。


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しまなみ海道を走る/馬島

2015年06月21日 | 散文
帰省時に来島海峡大橋を走って島巡りをしようと思い、ママチャリを送りました。
その愛車に乗って出発です。

向こうに見える橋を目指して坂を進みます。

ここに来るまでに長い坂道を上っています。



あんな高い所まで自転車を漕ぎます。

来島海峡大橋に行くまでが大変です。

梅雨空で靄っています。

雨は降りそうにありませんが、湿度が高いです。

波止浜の造船所を見ながら、らせん状に上がって行きます。



やっと橋の上に出ました。
徒歩・自転車の通行料は無料です。

手前に見えるのが「馬島」で向こうの島が「大島」です。

来島海峡の風景です。

向こうの島は「小島」です。

来島海峡第三大橋です。

陸地を離れて、海上に出ます。
高い所は苦手なのでちょっと怖いです。

馬島です。
怖いけど、覗き込みます。
今治藩の馬の放牧地があったことからこの名前が付きました。

海水の色が綺麗です。

馬島の入り口表示があります。

馬島に降りる道路はありません。

ここからエレベーターに乗ります。



階段途中で小島を望みます。



エレベーターから見る今治方面の景色です。



馬島から見る今治方面の景色です。



橋ばかりが目に付きます。



公民館の上にも橋があります。



馬島港の上にも橋があります。
小島経由波止浜行の定期船がありますが、出港した後でした。

自転車も乗せてもらえるようです。

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氏神様

2015年06月20日 | 散文
故郷の氏神「須賀神社」です。
案内板の記載内容に沿って報告します。
案内板は最近建てられたものと思います。

鳥居の右奥にある神馬像も最近のものと思います。

祭神/須佐之男命 斉明天皇

(筆者雑感:斉明天皇は女性天皇です。両者を夫婦としたのでしょうか?だから後述の神輿歌を歌うのでしょうか?)

由緒/当地方は出雲大社の信仰圏内であり、大宝元年(701年)六月出雲より勅勧請して須佐之男命を祭神として祀り、揚天皇社と号していた。
一方、斉明天皇(655~61年)が朝鮮半島百済国の求めに応じ、救援の軍勢を九州筑紫に進めるにあたり、西下の途次、桜井の長坂(長沢)の岡に御車を納められ(車塚という)朝倉の仮行宮に入られたという伝承により斉明天皇を奉祝した。
そして長坂天皇社または長沢天皇社と称する神社が長沢に生まれた。

往古、この両社は合祀され、中古の移転があり最終的に現在地の八重垣山に鎮座することとなった。

古来越智郡はもとより、周桑郡一円からの信仰厚く、「天皇さん」と愛称されて尊崇され、親しまれていた。
明治五年(1872年)八月神社合祀令により村内の他に六社あったのも一村一社となし、境内に六社宮として奉祀しており、翌年、社号を須賀神社と改め現在に至っている名社である。
社域は約八百坪、樟木の緑深く、また桜花爛漫として四季参詣する人が多い。

(筆者追記:小学校3年生の遠足の地です。)

なお社内にあった六は
・出雲者 祭神 大国主令
・山神社 祭神 大山積令
・荒神社 祭神 大己貴令
・寒井社 祭神 猿田彦大神

・馬神社 祭神 当地に牛馬を祭った
・租神社 祭神 神社全体地の神

また旧孫兵衛作村(筆者注記:孫兵衛さんが開墾したのでこの地名が付いた)は寛文二年(1662年)独立、立村するまでは長沢村に属していたので須賀神社の氏子であった。

立村後も慣例により須賀神社の氏子である。

このように歴史がある神社なので、氏子も寄付も多いようです。
寄付者の名前には知人が多くあり、同級生の名もあります。
父なんか複数あって、よくもまあ我が家の経済事情でこんなに寄付をしたものだと感心してしまいます。

その中で、数件紹介します。
この辺の寄付記念碑は古いものです。
手前から3者は土地を寄進しています。
社領としたのでしょう。
4番目の人は桜の木を20本寄付しています。
現在も、石柱の裏に桜林があります。
その向こうは福岡市からの寄付です。
一金壱千円とあります。
地元以外に佐賀県・宮崎県等九州からの寄付が多くあります。

この地区の多くの人が農間期に桜井漆器の行商をしていました。主な販売先が九州でした。
次男・三男でそのまま九州に移り住んだ人も多かったと聞いています。

こちらの古い一群の石柱は、東京からの寄付者です。

一金弐百円~五十円が、東京市麻布区、本郷区、渋谷区、浅草区から贈られています。


こちらは女性名で「在米国」とあります。

ちなみに、冒頭の最近まで無かった神馬像は、島根県瑞穂町の方の寄付です。

さて、氏神様だから当然祭りがあります。
春、田植え前に行います。
今ではお神輿の担ぎ手が居なくて道程の多くを軽トラに積んで氏子地区を廻っていますが、昔は18人しか担ぐことができなかったそうです。
長沢から15人、孫兵衛作から3人です。
氏子の長男の中から選ばれました。
担ぎ手に選ばれた若者はエリートです。
彼らにはある程度の自由勝手が許されたと思います。
その彼らが歌う(今でも歌っています)神輿歌を紹介します。
氏子は、子供の頃から、大人神輿の青年に聞かされて育ちます。
伏せ字の部分がありますが、祭りの素朴さ、大らかさを想像してください。
神に捧げる歌です。


<須賀神社神輿歌>
1.氏神様の 「*1よいやな~よいやな~」
  年に一度のお慰み 「*2そらよ~いよ!よいやな~よいやな~ありわいな~こりわいな~そらよいとさ」



2.名古屋の城は 「*1」
  金の鯱雨ざらし 「*2」



3.あのねーちゃんわし見て笑うた 「*1」
  わしも見てやれ笑うてやれ 「*2」



4.去年よりゃ今年 「*1」
  ○○も広がりゃ毛も生える 「*2」



5.去年の火事に 「*1」
  片○○焼いた 今に片○○毛が生える 「*2」



6.○○何処行く青筋立てて 「*1」
  生まれ故郷へ種まきに 「*2」



7.○○のほたくれを割木でどやしゃ 「*1」
  割木折れても○○きょろり 「*2」



8.笠松山よ 「*1」
  何の木(気)もない松(待つ)ばかり 「*2」



9.○○させさせと 「*1」
  ささにゃけとばせ毛をむしれ 「*2」



10.浦島太郎は 「*1」
  開けてくやしや玉手箱 「*2」



11.おかあさんの○○からすがつつく 「*1」
  おやじは怒って石投げる 「*2」



12.氏神様のお帰りがけに 「*1」
  あずきちょきんがぱらぱらと 「*2」

・・・私も一度だけ、祭りのタイミングで帰省して、神輿を担いで歌いました。
過疎集落は祭りの継承が喫緊の課題です。


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故郷は「世田山の戦い」の地-4(最終回)

2015年06月19日 | 散文
写真を撮る余裕も無く、ひたすら登りました。
頂上東の「展望台」に着きました。
世田山登頂です。やりました。
達成感が湧いてきました。

しかしながら、周囲の木々が生い茂り枝を張っているので、眺望が利きません。
従って、爽快感は湧きません。
それどころか、湿度が高いこともあって汗が噴き出ていますが、補給する水分を持っていません。
腕には擦り傷があります。
大体、半袖で山に登ろうなど、非常識です。

尾根に沿って西側の笠松山方向に移動すると、案内板がありました。
例によって記載します。

「世田山 328米
東予市(筆者注:現西条市)旧楠河村に属し、峰続きに朝倉の笠松山に連なり国立公園地帯である。
興国三年の頃(1342)守将大館氏明は、伊予官軍(筆者注:南朝方は「官軍」である)の勢力を盛り返そうとして脇屋儀助卿を迎えたが不幸にも病没しそのすきに阿波讃岐の敵将細川勢が大挙して来襲し世田城を包囲攻撃した。
守兵達はこれに対してよく奮戦したが遂に落城し氏明は戦死した。
この時脇屋卿の家来篠塚伊賀守はただ一人城門より打って出て自慢の鉄棒を揮い敵中を突破して今張(筆者注:「いまはる」と読む、現今治)の浦に至り敵船を分捕って沖の島に上陸したという。
沖の島は今の魚島といわれている。
守将氏明や戦死した兵を祀る碑が山麓の医王院(世田薬師)の傍にある。」

傍に「世田城址(展望所)」の案内板があります。



開けた所に数個の岩があります。

この山の自然石でしょうか?それとも城を築いた時の基礎石でしょうか?
これ以外に、城の遺構らしいものがありません。

人の身長よりも遥かに高い岩もあります。

本当はこの岩の上が頂上なのでしょうが、登りません(登れません)。

展望所といっても柵はありません。
この岩に立ってみました。

爽快感はありません。
怖さが勝ります。

下界を撮影しようとガラケーを覗くと、平衡感覚を失いそうになります。

世田城包囲軍が展開した地の現在の風景です。






生家方面を見て帰ります。
生家は笠松山から帰った方が近いです。
笠松山には子供の頃何度も登っています。

・・・が、世田薬師にママチャリ号を置いています。
OH MY GOOD!!

帰り際の出来事。
世田薬師前の道路の向こう側に、「史跡 永納山城址」の石柱が建っています。
新しいものです。
案内板がありました。

<古代山城とは>
古代山城は西暦663年に朝鮮半島で起こった「白村江(はくすきのえ)の合戦」前後の国際的緊張の高まりの中で築造されました。
「日本書紀」には古代山城に関する記載が見られ、百済の亡命貴族の指揮のもと建造された、とあります。
永納山城は文献には登場しませんが、各地の山城との類似性から、古代山城であることが明らかにされています。

<永納山城址の立地>
永納山城址は道前平野と今治平野との中間に位置しています。
また、すぐ東には燧灘が広がっており、極めて海に接近している点が立地上の特徴です。
標高132.4mの永納山と、北西に位置する医王山の2つの独立山塊を取り囲むように城壁が築かれていて、城壁の全長は約2.5kmになります。

<調査の変遷>
永納山城址は、昭和52年に発見され、その直後から昭和54年度、及び平成14~16年度に城壁の確認調査を実施しました。
これらの調査によって遺跡の範囲、列石や土塁からなる城壁構造が明らかとなりました。

平成20年3月 西条市教育委員会」

あ~、読んでしまった・・・。
これは太平記より遥か昔の話です。
女帝斉明天皇(彼女は2代前に「皇極天皇」としても皇位についています)の時代、額田王が、朝鮮出兵に際して「熱田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」と歌った故事があります。
興味あります。
すぐそこみたいです。
ちゃんと広い道もあります。

でも、今日は帰ろう・・・。
体力の限界です。これ以上無理をすると怪我します。

探索を次回の楽しみに取っておいて、帰りに見上げた「医王山」です。
UFOが現れそうな、個性的な山です。

先ほどの案内板を見るまで、子供の頃からずっと「硫黄山」だと思っていました・・・。
・・・勉強しなければ。
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故郷は「世田山の戦い」の地-3

2015年06月18日 | 散文
昨日の続きです。

奥ノ院に着きました。
左側には居住施設があり、最近まで住んでいた気配があります。

左奥に一輪車が置いてあります。

右側に墓所がありました。
(案内板の表示内容)
「大館氏明公墓所
南朝の忠臣大館氏明公は、新田義貞の甥にあたり武勇すぐれ、伊予の守護に任じられ世田城主となる。

伊予の宮方(南朝)を守るべく活躍するも、1342年(興国2年)北朝方細川頼春の大軍1万余騎(筆者雑感:脇屋儀助の碑には7千とあったが、まあいい)が攻め入り遂に力尽き城に火を放ち17勇士とともに切腹する。時9月3日、氏明38歳なり。
これを世田山の合戦という(太平記より)。


この墓は1837年(天保8年)氏春(17代)建立する。寺説では左後ろの小さな墓が元々の墓といわれる。

世田山城はその後も2度の大戦(1364年と1379年)がある。
名実共に世田山城は中世伊予の国の防衛拠点であった。
楠河公民館・楠河地区生涯学習推進委員会」

大館氏明と脇屋儀助の関係を夫々の説明板から整理するとともに、その背景と結果を推察してみます。

大館氏明は新田義貞の甥であり、脇屋儀助は新田義貞の弟です。
ともに同時期に38歳で死亡しているので、大館と脇屋は親子ではなく甥・叔父の関係でしょう。
脇屋が従三位で、大館が正四位なので、脇屋の方が位階が上です。三位以上は「公卿」で、名前に「公」を付けて呼ばれます。
四位以下は「朝臣」です。
両者の死は、大館が興国2年、脇屋が興国3年と記載されていますが、西暦表示はともに1342年となっているので、脇屋が5月に、大館が9月に相次いで死亡したようです。
一方、南朝は後醍醐天皇以降、3代で消滅しています。

つまり、後醍醐天皇の後継者後村上天皇は各地の戦いで有力武将を失った。
そこで、南朝方の軍事的支柱であった新田義貞の甥大館が支配していた伊予に叔父の脇屋を南軍の総帥として派遣して不利な体制を挽回しようと図ったが、両者が相次いで死亡したことで軍事的背景を無くし、南朝方が衰退していった・・・。
こういうことでしょうか。

(筆者余談)
子供の頃母の妹の嫁ぎ先は「お世田山に先祖のお墓があって、年に1度親戚が集まって供養する」と聞かされた私は、「不便な山の中にお墓があるなんて、嫁ぎ先は樵の家か?」と思っていました。
ここのことだったのですね。でないとそんなこと言わないし・・・。
じゃあ、十七勇士の一人じゃないですか!
誰も詳細を教えてくれませんでした。
それとも、この時もひとの話を聞いていなかったのでしょうか?・・・。

暫く佇んでいました。


お墓の前に山みちは続きます。

山頂に向かって進みます。

振り返ると、お地蔵さんの向こうにお堂が見えます。



けっこう峻嶮です。

一瞬、引き返そうと思いましたが、「年齢的に、ここで諦めたらもう世田山には登れない」と判断して、進みます。

次回(最終回)に続きます。


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故郷は「世田山の戦い」の地-2

2015年06月17日 | 散文
昨日の続きです。

雨上がりの山道に入って行きます。



案内板があります。

不動明王像があるようです。
楽しみが増えました。

四国の道らしく、所々にお地蔵さんが祀られています。
旅の無事を見守ってくれているのでしょう。

あの先のトンネルのような道へ進みます。

道が険しくなってきましたが、まだ序の口です。
想定内です。

世田山は平地から急に立ち上がっているので、これくらいの坂を登る覚悟はできています。

笠松山への表示がありました。
随分の距離を歩いた気がしますが、まだ半分くらいのようです。

ちょっと、しんどくなってきました。

時々、瀬戸内海が見えます。

こんな時は「ホッ」と一息つく思いです。

あ!谷の向こうに何か見えます。

不動明王像のようです。

平らに切り開いたところに出ました。

右手が、不動明王が鎮座している場所です。

200円で見学できるとの表示がありましたが、人が居ません。
入口には鍵が架かっていて入れません。
それに、工事中のようですし・・・。

頑張って横顔を撮りましたが見えますでしょうか?

不動明王を拝みたいのに入れない。
周りを見回すと、不動明王像の上に道があります。
頭上から見下ろしてしまいました。
勿論、よくお祈りをしました。

そういえば、ここまで誰にも逢っていません。
少し不安になります。

案内板がありました。
奥ノ院のことだと思います。
あと、200mです。
実は、このm表示がくせ者です。

ここまでの案内板と移動距離の比較から薄々感じていましたが、この「m」は地図上の平面での距離であって、実際に歩く距離ではないようです。

こんな山道です。
後200mなら普通すぐそこに見えています。
トレッキングシューズを履いている訳ではありません。
色使いのカッコ良さだけで選んだテニスシューズです(テニスはやりません)。
ここまで雨上がりの坂道を滑りながら登って来たのです。

後悔し始めました。

ほとんど読めない案内板に従って、世田薬師奥ノ院へ向かいます。



案内板によって、「本堂」「薬師如来」「奥ノ院」と表現が違います。

同じ所のことでしょうか?
一人ですので心細さが増してきます。

この石段の上のようです。

雨上がりの狭い石段で、滑りそうになります。

石段の中央に鎮座する岩の向こうにお堂が見えます。

到着です(目的の半分に)。

次回に続きます。
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故郷は「世田山の戦い」の地-1

2015年06月16日 | 散文
故郷の風景です。
ここから世田・笠松山の全体像がよく分かります。
左が世田山で右が笠松山です。
ご覧のように、両山は尾根で繋がっています。
私の生家は、バイパス道路の向こうにある丘の向こう側です。

あの山塊を北朝方が取り囲んだとのことなので、生家も戦場だったのかもしれません。

氏神様の近くから見た世田・笠松山です。

こんな近くに暮らしながら、昨日まで「世田山の戦い」を知らなかったのです。
故郷の歴史を知らな過ぎです。
「ひとの話を聞いていなかった」では済みません。

さて、脇屋儀助廟の一件があり、生家から3kmくらいの所に「世田薬師」があると聞いて、雨上がりの午後にママチャリで出掛けました。

昨夜、老父や老幼友達から「世田山の戦い関係の寺」と聞いています。

世田薬師の本堂です。

余談ですが、掲げられている提灯の寄付者の所在は「ハワイ」と書いていました。
太平記が頭を占領していたので、ちょっと唐突感がありました。

世田薬師の石段前から道前平野を望みます。
雲の上には石鎚山が見えます。

この辺りでも「世田山の戦い」が繰り広げられました。

やはり、在りました。
「嗚呼忠臣大館氏明公至誠存」で始まる石碑です。
その傍に案内板があるので、そちらを読みます。

「大館氏明公位牌殿
大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重鎮として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。
1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死す。
墓は山上本堂横に有り、位牌はこの三方荒神尊社横にまつられている。
太平洋戦争終了戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭りがおこなわれていた。
社殿前には大正12年に大館保存会にて顕彰碑が建てられている。

楠河公民館 楠河地区生涯学習指導委員会」

案内板の裏に廻ると、本堂まで1km、世田山山頂まで1.4kmと書いています。
案外近いではないか、行こう!

この決断が苦行を強いられることになります。

次回に続きます。
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伊予国分寺

2015年06月15日 | 散文
昨日カヌーの片づけをしていて、またぎっくり腰になりました。外出できません。
従いまして、帰省時の報告が当分続くと思います。

国分寺に着きました。
50数年ぶりの訪問です。
小学校1年生の遠足で訪れて以来です。

ここから南2Km弱の所にある小学校にとって、距離といい歴史を教える素材といい、1年生の遠足には最適の場所だと思います。

お遍路さんがお参りしています。



階段がありますが、私の記憶に違和感があります。
記憶では、石段が無い・・・。

冷静に考えると、国分寺くらの大きなお寺には、石段位あると思います。

他にもお参りしている方が居ます。

お遍路さんの存在は予想されたことですが、この本堂及び境内の様子と私の記憶の国分寺が、全く一致しません。
ちょっとショックでした。
あれは、どこの記憶なのでしょう?
探してみたくなりましたが、それは無理でしょう・・・。

お遍路さんの訪問が途切れることはありませんが、私はショックのあまり、お参りもしないで石段を下りてしまいました。




この石像と握手だけしました。
最近の新しいものだと思います。

もちろん、記憶にありません。

お寺の近くに、「史跡 伊予国分寺塔跡」の石柱が建っていました。

ここも、全く記憶にありません。

(案内板の表示内容)
「史跡 国分寺塔跡
奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。


この巨大な花崗岩の13個の礎石は、1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰形突起があり、径50cm程度の繰形座の柱石が刻み出され、天平時代の粗うちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。礎石間の間隔は約3、6mで多少傾いたものもあるが整然と並んでいる。

調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層のうえに置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。この上のあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である。
大正10年3月3日指定 文部省
史跡・名所の小路 今治市」
(筆者雑感:下手な文章だと思います。) 

(余談)
ここは国分寺があることから「国分」という地名です。
ここから海寄りに「古国分」という地名があります。今治藩主の墓がある所です。
以下、小学校で習った話。
古国分の方が開発の歴史が新しいのですが、名前を付ける時に「新国分」と「新」を付けることは、国分寺に失礼であると判断したそうです。
当時「新しいものをもたらしてくれるものはありがたい」として、仏教を伝えた国分寺がある国分より新しいとすることは恐れ多いことだったそうです。
・・・こんなことばかり覚えています。

(追伸)
国分寺の境内にも脇屋儀助の石柱がありました。
ここで病没したということもあって建てられたものと推察しますが、何か気になってしょうがないものがあります。

故郷に於ける南北朝の歴史を勉強しようと思います。
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