荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

讃岐うどん/松製麺所

2024年06月30日 | 散文

玉川町に美味しいうどん屋ができているので食べに行こうと妹と従妹が言います。結構流行っています。

昨年食べた波止浜の店の支店です。本店も混んでいましたので味の想像はつきます。

他の地元の店とは趣が異なります。

お洒落です。若者に好かれますね。

おお、混んでいます。若者が多いです。ひょっとしたら今日は休日か?

あ、仕事をしている従妹が居るんだら、土曜日か!仕事をしない一人暮らしに曜日の必要性はありません。

美味しかったです。っていうか、四国のうどんは何処で食べても美味しいです。慌てて食い付くのでいつも食レポを忘れます。美味しかったので雰囲気だけでも紹介しました。

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改めて見てみた今治銀座裏

2024年06月30日 | 散文

今治銀座商店街が賑やかだった頃にはあまり気にならなかったけど、ちょっと気になっていた店舗裏です。

商店街と並行して川が流れています。今は綺麗な水の流れです。小学校で習った「今治のくらし」では、「タオルの街『今治』の中央部の川は、染料で赤や緑に染まってとても綺麗」と教わりました。実際は染料が混じり合って紫から黒い川でした。中学生になって、美術の時間に「絵具が混じると『黒』に近づいていく。光は『白』になっていく」と習いました。なるほど、と認識した川です。

ベニスの街角みたいです。

所々に私設の橋が架かっています。公設の橋まで行かなくても川の反対側に行けます。橋は直接家と家が結ばれています。これが各所に有ります。両家は親戚なんだろうか?

そして、川に下りる石段も有ります。もうお気付きだと思います。殆どの家が川に張り出しているのです。

不法建設のオンパレードです。

ずっと昔からそうなんです。

今となってはそれが風情となって、ちょっと好い景色を醸しています。

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今治銀座の今

2024年06月29日 | 散文

今治銀座の東端です。アーケードの中に江戸時代の名残を留める石柱です。

さて、今治銀座を行きます。前回より明るくなりました。

閉店した店舗が取り払われて、太陽光が差し込んだせいです。寂しい風景ですね。

営業している店舗がまた少なくなっています。この店は、数年前から「閉店セール」を行っていました。まだ営業しているじゃないか⁈との感想です。

おやおや、いつもの看板が店内に有りました。どっこい、生きています。

今治市の中心部でした。

人が居ないとポストや電話ボックスが寂しいです。

学生の頃から有ったシャッターアートが変わらず素敵です。

閉店した場所を地上げして集合住宅が増えています。こうなるとアーケードが邪魔です。

本屋「マス屋」でした。今は教育図書を売っているんですね。お金は無いけど暇はたっぷりあった高校生が沢山立ち読みしていました。私もその一人でした。ずいぶんお世話になった本屋です。時々は本を買っていたんですよ。

今治銀座の西端です。

これだけ店が無くなると、誰も訪れません。人が居ないアーケード街は、ちょっと不気味です。

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今治新町商店街

2024年06月29日 | 散文

かつて港に着いた人達は、港の前の商店街に流れて行きました。その「新町商店街」の今の姿です。

一番手前のお土産屋です。

今も商店らしい店ですが、往時を偲ぶよすがはありません。

他の店の多くは閉店しました。港に一番近い喫茶店でした。港の前にバス停があって、早朝に港に着くと、ここでモーニングサービスを食べながら、始発のバスの運行を待ったものです。ずいぶん賑わった店でした。

商店街を歩きます・・・。

昔から界隈は、蒲鉾屋と魚屋が多いです。

この店なんか何度も何度も表彰された店でした。

今も経営しているだけ立派です。

今は人より幟が目立ちます。

サッカーを町おこしにしよと元全日本監督が頑張って居ます。

道続きの「今治銀座」へ足を進めます。

ここも寂しいです。

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今治港

2024年06月28日 | 散文

今治港湾事務所です。数年前に竣工した船の形の建物です。確か「ハーバリー」と呼んでいたと思います。ハーバーと今治の合成語です。

桟橋へ行きます。

港の向こうに大島が煙ります。

「しまなみ海道」ができる前は、島嶼部を繋ぐ連絡船の出入りで賑わった港でした。

しまなみ海道とバーバリーができて、昔の面影が全く無くなりました。

今は寂れた港でしかありません。

おっ⁉︎偶々フェリーがやって来ました。

こちらに向かって来ます。

着桟します。

先ほど何処からか自転車で現れたシルバー世代の人が綱どりを行います。

「せきぜん」の文字が見えます。確か「レモンの島・岩城島」からの船です。かの島は「しまなみ海道」が繋がっていません。こうやって、昔ながらの交通機関で、買い物等にやって来ます。殆どの島は車で「しまなみ海道」を走ってやって来ます。行き先はここではなく、山の上に造ったインターチェンジ周辺の「今治新都市」です。

着桟して船の前部が開きました。

車が上陸します。多分、新都市へ行って買い物するんだと思います。

徒歩の人も数人居ます。港の界隈で買い物をする、少数の人だと思います。

商用車です。商売の相手の多くは、やっぱり新都市だと思います。

平成の大合併で多くの島が「今治市」に吸収されました。

人口は増えましたが、港の周辺は寂れる一方です。

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蛇池の土手を壊していた。

2024年06月28日 | 散文

あれっ!蛇池に水が有りません。

この池は昔から水を枯らしてはいけないとの伝説があります。どうしたんだろう?罰当たりな!

土手が新しいです。唐突ですが、あの山が、竜神が越えていった山です。土手を調べてみます。

その前に、ここは竜神伝説の地で、池の奥は湿地帯で小さな観光地であり、遍路路でもあります。従って、昔からあそこにトイレが在りました。田舎の「便所」です。汚なかったです。

ところが、ドアを開けたら便座の蓋が自動で上がりました!我が家より凄い!凄く綺麗になっています!外国人の歩き遍路が多いそうです。

さて、余談はそこそこに、土手へ行きます。

空っからの池です。こんな事をしたら池ません。龍神の祟りがあります。

ショベルカーが動いています。

土手がここで切られています。バチが当たるぞお前ら!

池の向こうは「医王山」です。西暦663年の白村江の戦いに敗れた大和朝廷は、同盟国百済の亡命貴族の指導によって、要所に山城を構築して防御を固めました。ここに「医王山」と左の「永納山」とを結んだ城を築きました。四国に3つ造った古代山城の一つです。

医王山の背後の山塊が、太平記の舞台「世田山」です。西暦1342年の世田山合戦です。

驚いた私は、「いなか屋台 うどん村」にとって返しました。「蛇池の水が無いけど、何があったの?」「水害防止の土手の改修です。補助金が出るちゅうんで工事しとんです」「だって、これから田植えだし、夏場の稲の育成に水が要るだろうに」「もう皆いなちいとしか米作らんけん、山からの水でやって行こや、ちゅう事になったんです」冗談で「龍神様が怒るぞ!」と言ったら、「もう、だあれも龍神さんなんか知らんのですよ」との事でした。

「蛇越しの池 女龍の伝説」はこちら

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「いなか屋台 うどん村」商い中

2024年06月27日 | 散文

今年というか今週2度目の訪問です。先日暑い中を自転車でやって来たら臨時休業でした。

今日は営業中です。

民家の庭に屋台を建てて、テーブルを置いて、週5日やっています。「先日休んだな!」って言ったら、「すみません田植えの準備で・・・」と答えます。年に1度の訪問です。それでも覚えていてくれます。地元の人間と違って、ちょっと標準語っぽいので、覚えやすかったのだと思います。こうして7〜8年の付き合いになります。

いつものとおり「冷やしうどん『中』」を注文して、おでんを取ります。昨年より20円と30円(すじ肉)の値上げをしていました。しょうがないです。何でも上がっているもの。

夫婦二人でやっている店です。「孫兵衞作」に在ります。何とか孫兵衞さんが開拓した村です。

ちょっと時間が早いので客はまだ私だけです。いつも流行っています。火野正平さんも自転車でやって来た店です。田植えの話や終わったばかりの祭りの話や東京の話をしながら、うどんを待ちます。

うどんが来ました。今日は食レポを忘れませんでした。

いつもこのおでん3種です。

うどんは1玉半です。

ネギにおろし生姜に天かすをたっぷり入れた汁です。最後に胡麻をすり掛けていつものメニューです。うどんもおでんも、素朴に旨いです!

満足して、挨拶して帰ります。「また来年来ますね。お二人ともお元気で」こんな店です。

孫兵衛さんの話はこちら

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焼き豚玉子飯「重松飯店」再訪

2024年06月27日 | 散文

昨年の訪問で確認していました。目印のガスタンクです。

あそこですが、行列どころか人が居ません。やっちゃたみたいですね。

定休日です。田舎の一人暮らしで仕事をしていなかったら、曜日に頓着しません。新聞も無いし・・・そうか、今日月曜か!

でも人が居ないので、ゆっくり好きなアングルで撮れます。

隣は散髪屋でしたか。

こんな指示です。

元々は普通の町中華だったのが、賄い飯が商品としてヒットして、今治市のソウルフードになったらしいですね。

また来年来ます。曜日を確かめて。

昨年の記事はこちら

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「大黒湯」再訪

2024年06月26日 | 散文

既報の記事「今治ラヂウム温泉」で、次回の帰省時にも見に来ると書きました。実はこの「大黒湯」を今年も見に来たのです。ラヂウム温泉の近くです。前回は気がつきませんでした。存在を知らなかったら、すれ違ったことも知らないで過ぎて行きます。人生の出逢いもそんなものでしょう。縁と呼ばれる現象です。

さて、昨年と変わらない風情です。玄関前を掃除しているので、今も現役の銭湯のようです。

2階が住居です。昨年も玉ねぎを干していました。こんな景色さえも変わっていません。

眺めます。

玄関も変わりません。

昨年同様、営業時間は午後1時半です。周辺は漁師町です。夜明けの出漁も行います。そんな需要があるんだと思います。

ずっと下を向いたままです。掃除に熱中しています。私に気付いたら声を掛けてみようと思っています。仕事中の人に、こちらから声掛けする勇気はありません。基本人見知りです。

開店前の大黒湯です。

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今治ラヂウム温泉

2024年06月26日 | 散文

今治市の街で遭遇しました。「大正モダン」を思わせる建物です。

正面から眺めます。左側に、「ゆ」と「ホテル」の文字が見えます。

玄関です。営業しているんだろうか?

玄関の柱です。「国登録有形文化財 今治ラヂウム温泉本館」と書いています。同様に英語でも記載しています。そしてそして、「建築1919年 国 登録2016年11月」とも書いています。第一次世界大戦終了の年の建築です。冒頭「大正モダン」と感じた印象そのものです。登録したのが2016年11月なので、最近のことです。

その下にも、古い建物で時々見かける形式で「登録有形文化財 この建築物は貴重な国民的財産です」とも有ります。凄いね今治!でも営業しているんだろうか?

左手にホテルの玄関が有ります。3階がフロントのようです。宿泊者「レンタサイクル乗り捨て施設」とも書いています。「しまなみ海道」でのサイクリングが盛んな街です。駅前等に同様の施設が有ります。それでも、「営業しているんだろうか?」の疑惑が拭えません。それくらい古さを感じさせます。

改めて見上げます。

ぐるりと廻ります。横から見ます。

こちらがボイラーのようです。

裏手から見上げます。上の方が消えかかっていますが、煙突に「ラヂウム温泉」の文字が見えます。そういえば、昔は「ラジューム」じゃなかったですね。

正面から見て左側に来ました。構造的に、手前の屋敷と一体のようです。オーナーの家だと思います。

表に戻りました。存在感が凄いです!

次回の帰省時にも見に来ると思います。

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国分城の変遷と唐子山

2024年06月25日 | 散文

桜井平野の真ん中に独立した山が在ります。多くの数と多くの種類の古墳が在ることから、古くから人々がよって立つ山だったのでしょう。あそこに城を造ったのは豊臣秀吉の家臣「福島正則」です。麓に「お屋敷」の地名と堀の遺構が残っています。

国分寺の隣に「春日神社」が在ります。

由緒書きの末尾に、「唐子山の福島神社を合祀した」との記述が有ります。

ここに福島神社が合祀されています。

福島正則が国分城に造った神社です。

ここから四国八十八ヶ所五十九番札所である国分寺の屋根が見えます。

そして、山道の方向に国分山(現在の唐子山)が在ります。

さて、「脇屋義助の墓」の真裏です。

「国分城城主小川土佐守祐忠夫妻尊霊」の墓石が有ります。この人物をよく知らないのですが、福島正則の後に国分城に入った人物です。彼は関ヶ原の戦いで西軍に付きました。

「家来墓」も有ります。関ヶ原での敗戦後、小川裕忠夫妻と一緒に自決したのでしょうか?

徳川家康に付いた藤堂高虎が伊予半国20万石を領した際に、彼は国分城を廃棄しました。その資材を使って、伊予半国経営の為の新たな城を造りました。今治城です。

藤堂高虎が名付けた「唐子山」の呼称が今も使われています。そんな歴史を持つ山です。

 

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吉野朝忠臣 従三位 脇屋義助公廟

2024年06月25日 | 散文

国分寺のすぐ傍です。でも、ここでお遍路さんに逢ったことはありません。せっかくの歩き遍路なのに、ここを素通りしたら勿体ないと思います。

石段を上ります。

上がった所に拝殿が在ります。

右手に説明書が有ります。(説明板表示内容)
「脇屋義助公廟堂の由来 
延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。
同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。

そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。
ここに尊氏が樹立した京都の北朝(公明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。
しかし戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武士が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。
そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復すべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。

興国三年(1342)五月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(筆者注:今治の語源で「いまはる」と読みます)の浦に到着した。
しかし義助は不運にも、その直後に病に斃れ、国分寺に急逝した。享年は三十八歳であった。



この報を受けた阿波の守護細川頼春は儀助の死を好機とみて、総勢七千の大軍を率いて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。


現在の義助公の廟堂は寛文九年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。
また廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる。
今治市教育委員会」

ここが墓です。拝殿の真裏です。

こんなのが墓前に供えられていました。大河ドラマか何かで、脇屋義助を演じた役者だと思います。

手を合わせます。遠く鎌倉時代末期の人です。

 

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国分寺と国分寺塔跡

2024年06月24日 | 散文

国分尼寺跡行ったので国分寺へ行きます。四国八十八ヶ所五十九番札所です。日本遺産「四国遍路」59番札所です。

小学校1年生の遠足の場所です。小学校が国分尼寺跡なので、学校は歴史を学ばそうと、ここ国分寺を人生最初の遠足の場所に選んだのかも知れません。でも、そんな学校の思惑なんか全然感じまていませんでした。

ここには「握手修行大師」が有ります。新しいものです。案内板に書いてあるとおり、お大師様は忙しいらしいです。忙しくない私が手を握って願い事を言うのはおこがましいです。

本堂です。

さて、ここに「脇屋義助廟」への案内を兼ねた石碑が有ります。

「是ヨリ二丁」です。すぐそこです。

ここから見る世田山・笠松山が梅雨空に煙っています。彼はあそこで戦闘を指揮する予定でした。桜井の浜に到着後1週間くらいで、ここ国分寺で病死しています。

脇屋義助廟へ行く途中に「国分寺塔跡」が在ります。観光バスで八十八ヶ所巡りをする人は知りません。お遍路さんの多くが知らないと思います。私はここで人に逢ったことがありません。

ここ重要です。今の国分寺は何度か再建したものですが、ここは建立当時のそのままなのです。

さて、脇屋義助廟に向かいます。

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伊予国分尼寺跡

2024年06月24日 | 散文

伊予桜井駅から見た白い看板です。石丸忠兵衛の石碑のすぐ傍です。界隈は歴史の宝庫です。

探索の為の道が設けられています。

こんもり盛り上がった土地に柿の木が有って、そこに説明板が立っています。遠くからよく見えます。

天平13(西暦741)年の遥かな大昔、聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺跡の建設を命じました。

国分尼寺跡です。

石で囲われている場所です。

建物の基礎石です。

大きな敷地を持っていました。背後の山から桜井小学校の敷地まで、広大な地所です。右に小さく見える山は「唐子山」で、あの先に「国分寺」が在ります。国分寺と国分尼寺とはこんな位置関係です。

現場をちょっと離れます。周辺は何処も遍路道です。

遍路道石碑の前の石柱に、「史跡 伊予国分尼寺」の文字が見えます。

石柱からちょっと行くと、「法華寺」です。国分尼寺を現在に引き継ぐお寺です。

我が家の菩提寺でもあります。人が温厚で、温暖でもの成りが良くて、一昨日が明後日でも、昨日が明日でも何ら変わらない日々を淡々と、国立公園と歴史の中で暮らす人々が居ます。そんな土地柄も、ちょっと良いでしょう?

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「石丸忠兵衛」の墓と石碑

2024年06月23日 | 散文

伊予桜井駅の裏にやって来ました。

駅舎を覗く場所です。

あの木が茂った場所が石丸忠兵衛の墓があった場所です。

中に入れません。入っても何も有りません。数年前に確認済みです。

以前は隣の田圃の畦道を通って一周できたのですが、ご覧のとおりイノシシ避けの柵が設置されています。

反対(駅)側も草が茂って行けません。この後、既出の部落総代から聞いた話によると、もうずっと昔に移転したそうです。跡地だけが保存されています。

墓所を背後に山の麓を見ます。あそこに白く石碑が見えます。

みかん畠の中です。

これが石丸忠兵衛の石碑です。前回の訪問時にはもっと沢山のみかんの木が有りました。切ったのでしょうか?もう畠の雰囲気はありません。野原の風情です。

「開拓 新田 石丸忠兵衛 寛永」の文字がかろうじて読めます。部落総代が言います。「石丸忠兵衛が桜井を拓きました。子孫はこの地に居ません。忠兵衛の墓は何処に有るのか分かりません」

石碑の背後には何も書かれていません。彼が拓いた土地を眺めます。

総代が言います。「背後の山に石丸一族の墓が有ります。今は誰も参っていません。時々この畠の持ち主が草を刈っています」

部落総代が飼っているミツバチの巣です。

「昨日分蜂を見ました。その箱から女王蜂が働き蜂を従えて、あの向こうの巣に引っ越しました。私も初めて見ました」その後、既報の綱敷天満宮の絵馬の話を聞いた次第です。

私は彼の生活を羨み、彼は私の生活を羨みました。幸せって、何処にあるんだろう?

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