「日暮里は江戸時代、四季折々の自然が楽しめる景勝地として親しまれた。風光明媚な情景を眺めていると、『日が暮れるのを忘れてしまう』ことから『ひぐらしのさと』と呼ばれていた。」で始まる新聞記事を目にしました。
読み進むと、「当時の『ひぐらしのさと』にあたる荒川区西日暮里3丁目の本行寺。『月見寺』と呼ばれた寺には俳人小林一茶がたびたび訪れ、当時の住職と交流し、句を吟じた。」とあります。更に、現在も「本行寺句会」が開かれている、とのことです。
本行寺ならしだれ桜を観に行く寺です。「月見寺」の別名は知っていましたが、句で有名な寺とは知りませんでした。いつも桜を撮ったらそそくさと次の桜に向かっていました。丁度桜の季節です。行ってみます。
門に由来書きが有りました。「本行寺は山号を長久山と称し、道灌山のつづき道灌丘に在り、月見寺とも呼ばれています。今より497年の昔大永6年(1524)に太田道灌公の孫、太田大和守資高公によって武江城(江戸城)内平河口(現在の平河門、毎日新聞本社辺)に建立され、太田家代々の菩提寺として帰依を受けた。
三代資高公は武州岩槻に居住し、北条氏綱の婿になって大永4年武江城に移住しました。その後、北条氏の勢力が増大し太田氏は何かにつけて圧迫され、そこで太田一族の勢力を道灌公の昔に返そうと計画したことが『寛政重修諸家譜』にみられます。
それによると資高の子康資は北条氏を討とうと謀議を巡らすも露見しました。その際本行寺の僧が密かに資高を逃したと記されています。よって本行寺も、城内平河口から神田、谷中清水町を経て、現在地の日暮里に移って313年の歳月が経っています。 頻繁に移転しているのは、太田・北条・徳川と江戸における中心勢力移行の影響を受け当山も存続に苦心をしていることが窺えます。
この地を選んだのは、ここが太田道灌公ゆかりの地(道灌丘)であり道灌公が築いた砦跡(物見塚)であって、月見寺の名のとおり高台で眺めも良く精舎建立にふさわしい処であったからです。開山から約500年の間、世の移り変わりにもかかわらず又、かの戦災にも焼けることなく、今日の隆盛を保っているのは云々 ・・ 西暦2022年 長久山・本行寺34世 山主 加茂日量」
山内は3本のしだれ桜が見頃です。
偶然居合わせたこの方に案内して頂きました。沢山の本行寺の写真を持っていましたが、正体は不明です。おそらく檀家の人だと思います。彼の話では、この桜は昨日報告の「谷中長明寺」のしだれ桜と一緒に、身延山で買ったそうです。長明寺が1本、本行寺が3本。約50年前のことだとか。
先ずは一茶の句碑です。「陽炎や 道灌どのの 物見塚」
山頭火です。「ほつと 月がある 東京に来てゐる」
新聞には「月見寺・本行寺にふさわしい句」と紹介されています。
本堂です。
「月見寺」の碑です。
そして、道灌丘の碑です。
剣豪斎藤道場主の墓も有ります。
見上げるしだれ桜です。
今年も綺麗に咲きました。