都電に薔薇が似合います。都電が坂を下って来ます。
爽やかな季節です。
5月の薔薇の坂道を都電が上下するロケーションです。
都電の往来を、場所を変えながら眺めます。
薔薇の名所です。
泉岳寺の近く、国道15線脇に緑地が在ります。
歴史上貴重な史跡です。
石垣の跡です。大きな門だったことが分かります。
新緑に囲まれて、静かに歴史を語ります。
交差点にその名を残しています。
地下鉄の駅です。その先の大欅が大木戸の跡です。
以上、葛飾北斎に導かれた品川の散策でした。
思えば、葛飾北斎「富嶽三十六景/東海道品川御殿山ノ不二」の現場を探しにやって来て、周辺を訪ねています。久しぶりに赤穂義士の墓所を訪ねます。この時期に来るのは初めてです。さすがに人出は少ないです。コロナ禍でなくても、この時期の参拝者は少ないだろうと思います。
今日はゆっくりと、自分のペースで廻ります。「瑶池梅 義士の墓守をしていた堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。」 新緑が鮮やかです。
「血染の梅 血染の石 浅野内匠頭が、田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。」
続いて「首洗い井戸」です。
川上音二郎の名前が有ります。吉良邸討ち入りの講談の縁だと思います。
墓所の入り口に人は居ません。
最初にあるのは浅野内匠頭の正室の墓です。(余談ですが、側室の墓は、新庚申塚の妙行寺に、四谷怪談の「お岩さん」の墓の傍にあります。一緒の場所じゃないんですね。)
続いて浅野内匠頭の墓へお参りします。
さて、赤穂義士の墓へお参りします。案内書があります。右上の大石内蔵助の墓が欠けています。すみません。
墓所へ入ります。
四十七士の墓が並んでいます。全ての戒名の最初は「刃」の文字です。
正面が大石内蔵助の墓です。
大石主税の墓です。僅か16歳でした。
この間、私以外の参拝者は現れませんでした。
高輪の泉岳寺にやって来ました。
泉岳寺中門です。
入っていくと小さな門前町があります。
来店客はありません。
コロナ禍の影響だけでなく、通常この時期の参拝者は少ないです。
山門前です。
その脇には感じの好い店が営業日です。
毎年12月の討ち入りの日近辺では多くの参拝者が訪れます。
山門を潜ります。
山門前の青紅葉が美しいです。
この話、続きます。
大石内蔵助切腹の場所から鬱蒼とした杜を見ています。
塀に沿った道の下方です。
そして上方です。坂を下ります。
坂の下にはスリランカ大使館です。
大使館の向かいには大きな杜の屋敷が在ります。
大使館前に移動してもカメラに入り切りません。
ここは以前、「高輪皇族邸」でした。
昭和天皇が皇太子時代の一時期をここで過ごしました。その前は高松宮が徳川慶喜の孫喜久子親王と夫婦になって暮らした邸です。元は後継者が絶えた有栖川宮邸です。
有栖川宮の祭祀を継承した高松宮が、有栖川宮家の血を引く喜久子親王と結婚したのです。
平成16年(2004)年まで高松宮宣仁親王と宣仁親王妃喜久子の住まいでしたが、令和2年(2020)年3月31日に上皇・上皇后夫妻が転居して仙洞仮御所となったものです。(ウクペディア参照)
大石内蔵助切腹の場所から反対側の仙洞仮御所の坂です。
この周辺は多くの大使館が在る高級住宅街です。
スリランカ大使館の裏にも大使館が在ります。
雨の心配は無い薄曇りの空です。
こんな石碑がありました。「大石内蔵助自刃跡」の文字が読めます。
ここは「都営高輪一アパート」です。
このアパートの敷地奥にその場所は在ります。
突き当たりは旧肥後熊本藩細川家下屋敷の一角です。
あの扉の中が大石内蔵助ら赤穂浪士17名の切腹の場所です。
説明板を読みます。
扉の窓から覗きます。
切腹の場所はあそこでしょうか?
扉前から北に、杜が見えます。
あそこへ行きます。
虎屋です。随分前からシャッターが閉まったままです。
個性的で好い風情です。
信号を渡って全体像を眺めます。
煙突にも屋号が有ります。
天神坂が二本榎通りに突き当たった丘の上です。
ここに灯が点された姿は風情があっでしょうね。
もう、たぶん再開しない雰囲気です。
高輪消防署二本榎出張所前の路です。
柘榴坂に続く路です。
柘榴坂頂上から北に向かいます。見えて来ました。個性的な建築物です。手前の茶色の建物は高輪署です。
「高輪警察署前」の交差点に在ります。
ここは高輪の丘の頂上です。
昭和8年(1933年)落成の庁舎は歴史的建築物として有名であり、取り分け火の見櫓からは東京市全体が一望に見渡せました。
設計は警視庁総監会計営繕係の越知操です。こんな才能の持ち主が総監会計営繕係に務めていたのですね。
玄関の風情です。
玄関前から見上げます。
ちょっと離れて眺める警察署と消防署です。
個性的で素敵な火の見櫓です。
消防車がスタンバイしています。
シックで現役の消防署の風景です。
品川を走っていたら、「柘榴坂」に出逢いました。すぐに浅田次郎の「柘榴坂の仇討」を思い出しました。ここがあの小説の舞台ですね。
坂下の風景です。
坂上の風景です。
説明を読みます。
標識が有ったのはこんな場所です。
場所の確認に一旦坂下まで下りました。JR品川駅の正面の坂です。
小説を思い出しながら坂を上がります。
小説の説明にウキペディを転載します。
「柘榴坂の仇討」
「彦根藩の下級武士・志村金吾は、家中随一の剣術の腕を認められ、藩主である大老・井伊直弼の近習に取り立てられる。直弼の人柄に惚れ込んだ金吾は、命に代えても直弼に仕えることを誓った。しかし、安政7年の桜田騒動の際、金吾は下手人・佐橋十兵衛を追いかけ行列を離れてしまい、その間に直弼は水戸浪士たちに討ち取られてしまう。
主君を守れなかった大罪を犯した金吾に対し、彦根藩は打ち首の処罰を考えたが、金吾の罪を背負い自害した両親に免じて打ち首を取り下げ、その代わりとして「水戸浪士たちを討ち、直弼様の墓前に首を供えよ」と命じる。仇を探し全国を歩き回る金吾だったが、水戸浪士たちは見つからず、金吾は切腹を願い出るが「ご下命の撤回はない」と家老に言い渡される。失意に沈む金吾だったが、妻のセツに支えられ仇討のため水戸浪士たちを探し続ける。」
「桜田騒動から13年が過ぎた明治6年。既に彦根藩は存在せず、新政府の改革により武士も姿を消していた。しかし、金吾は13年前の命令を果たすため、ひたすら仇を探し続けていた。桜田騒動に関わった水戸浪士たちも江戸から明治へと時代が移る中で次々と死んでいき、唯一人生き残っていたのは、金吾がかつて追い詰めた十兵衛だけとなっていた。その十兵衛は既に刀を捨て、「直吉」と名を変え車夫として生きていた。」
「司法省の役人となっていた金吾の親友・内藤新之助は、武士としての矜持を持ち続ける金吾の姿を見て力になりたいと思い、かつて水戸浪士たちの取り調べを担当した元評定所御留役の秋元和衛警部に相談を持ち掛ける。同じ武士として金吾の助力を快諾した秋元は、金吾に十兵衛の居場所を教える。金吾は即座に十兵衛のところへ行くが、その日、新政府は「仇討禁止令」を布告する。」
頂上近くに「カトリック教会」が在りました。
「十兵衛の人力車に乗り込んだ金吾は、十兵衛が自分と同じように両親を失い孤独に生きてきたことを知る。人力車が柘榴坂を登り切ったところで十兵衛は車を止め、『自分を討ってくれ』と願い出る。金吾は自分の刀を与え、十兵衛に一騎討ちを願い出る。金吾と十兵衛は一騎討ちの末にもみ合いになり倒れ込み、十兵衛は再度自分を討つように願い出る。
十兵衛を討とうとする金吾だったが、『命懸けで国を想う者を無下にするな』という直弼の言葉と『国を想う者に不当な処罰を与えれば、誰も国を想わなくなる』という秋元の言葉を思い出し、十兵衛に『新しい人生を生きてくれ』と諭し、十兵衛はその言葉を聞き泣き崩れる。
柘榴坂の頂上北側の路です。
一騎討ちの後、十兵衛は自分を慕ってくれているマサとチヨの母子の元に戻った。一方の金吾はセツの元に向かい、これまで自分を支えてくれたことに感謝の言葉を伝え、共に家路につく。」(ウキペディアより) 映画では志村金吾を中井貴一が、佐橋十兵衛を阿部寛が、金吾の妻セツを広末涼子が演じました。
・・・柘榴坂を見下ろします。
千住の「宿場通り商店街」のバナーに惹かれて富嶽三十六景の現場を訪ねたのは1月のことでした。
例によって説明を転写します。
東海道品川御殿山ノ不二(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)
東京都品川区北品川三~四丁目
東海道に面した御殿山には、将軍家の品川御殿が置かれ、その後桜の植樹が行われ、富士と桜が一緒に楽しめる名所となりました。
花の盛りのころには、敷物を広げて宴を催す人、扇を広げて舞う人たち、子供を背に花見を楽しむ夫婦など、今も変わらない風景です。
画面右下の小僧の担ぐ風呂敷に、版元西村屋の商標(山形に三つ巴)があります。
画中の人物のしぐさや隠された図像や文字に目をこらすのも北斎画の楽しみ方です。
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御殿山の訪問はこの絵のような桜の季節に取っておこうと思っていたら、緊急事態宣言が発出されて、特に花見の外出が制限されました。もちろん現在も緊急事態宣言が延長されている東京ですが、密にならない状況であることを確かめて訪問しました。
国道15号線と京急本線の向こうに銭湯が在る交差点です。この背後の路から行きます。
「御殿山通り」を行きます。
山ですから当然坂道です。
JRの線路を跨ぐ坂です。
覗き込むと新幹線が疾走しています。
こんな案内がありました。目的地のようです。
木漏れ日で薄暗い桜の路を行きますが、どこで葛飾北斎が描いたのか見当がつきません。
視界が開けたのは「御殿山交番前」です。上ってきた御殿山の西端です。つまりこの間のどこかです。
現在の御殿山は高級住宅街です。
冒頭の「説明」の所在地は、東京都品川区北品川三~四丁目です。街を走ります。
ここで思い出したのが冒頭の絵です。つまり、山の端に行って当時富士山が見えた場所を探すことにしました。山の南端の公園にこんな案内書がありました。
「御殿山」の説明もありますが、葛飾北斎富嶽三十六景の説明はありません。
新緑の崖です。
富士山の方角は高層ビルに隠されています。
ちょっと移動して別の崖に行きます。
あの方向が富士山です。北斎の絵は、この山も含めた富士山を望む花見の光景ですが、まあ、感じは掴めました。
さて、山を巡る途中にこんな塀がある路に行き当たりました。この景色、記憶があるように思いました。
塀沿いに行くと閉ざされた門に来ました。
そうなのです。ミャンマー共和国大使館でした。前回も門は閉ざされていました。
数年前に企画した「大使館を訪ねて」シリーズで訪れた場所です。新緑の下で好い雰囲気です。
現在この国は軍事クーデターによって国軍が国会を掌握していて、民主主義が破壊されようとしています。対国民だけでなく、ロヒンギャ族に対しても迫害が続いている危険な国情です。
こんな場所が葛飾北斎と繋がっていました。
なお、前回ミャンマー大使館を訪ねた記事はこちらです。参考まで。
ネットが張られていました。
玄関前が片付けられています。
ここには雑然と花が植えられていました。
住民はどこへ行ったのでしょうか?
ここの景色が好きでした。(2019年8月)
・・・また景色が変わります。
神谷町駅へ戻ります。
雨の裏参道です。
隣のマンションとの間を縫う階段を行きます。
愛宕山トンネルが現れます。
振り返ります。
ここに有った看板が一つ無くなりました。
(以前の看板)
ずいぶん長い間ここで営業していましたが・・・。
愛宕神社裏の坂を下ります。
虎ノ門ヒルズ隣のビルが完成しました。ヒルズビルより高いです。東京の新築ビルは次々に高さを更新していきます。
雨の坂を下ります。
目的地はここです。
雨の降る一角です。
しっとりと好いです。
チーズ専門店です。この風情は変わりません。
正面のドアの明かりも一緒です。でも、店名看板がありません。
ドアの前から見上げます。
雨の降る一角です。
雨の坂です。
やっぱりありました。伊勢ヶ濱部屋の向かい側の家です。
そして、伊勢ヶ濱部屋の隣です。この2つの家はいつも伊勢ヶ濱部屋を応援しています。
部屋の前にもやっぱりありました。
出前の器です。夕べはさぞかし賑やかな宴会になっと思います。照ノ富士2場所連続の優勝です。場所前の予想どおり、途中反則等でちょっとモタモタしたけど、照ノ富士の力量が抜きん出ています。
あそこはどうだろう? やって来ました。まだ横断幕は出ていません。
でも、優勝セールはやります!
まだ暖簾は出ていません。
開店時間は、1時間ほど後です。
ただ今開店準備中です。
暖簾と合わせて、「祝優勝」の横断幕が出されるはずです。
一方優勝しなかった部屋です。名門出羽海部屋です。整然と自転車が並んでいます。
昨夜の宴会の跡です。優勝しなくても、無事に終わればご苦労様です。
こちらも名門春日野部屋です。静かな玄関前です。各部屋こもごもです。
さて、膝に弱点を持つ照ノ富士には時間の猶予はありません。来場所一気に綱を取りたいところです。横綱になってやるだけやったと自分で思ったら、胸を張ってすぐ引退するのも悪くないです。やってみなはれ、応援しています。