生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
41.孝子七蔵(国分村書より)
安政3年(1856)5月22日、桜井国分谷の口で七蔵は前の山で樵中、和同開珎二百文を掘り当てた。
大変珍しいことで人々は分譲を乞い和同開珎一文につき寛永通宝二百文で交換し、七蔵は、これによって母親に孝養を尽くすことができた。
この事が今治藩公の耳に入り衣類等を賜って表彰せられた。
七蔵は実に正直律儀の人で明治33年まで生き、90歳の天寿を全うしたとの事です。
又、国分の古老の話では、七蔵氏は和同開珎発見の前後に、その地点で金銅の仏像を掘り出したときの話を聞いたが、これによって、この和同開珎は宝實の為に納埋されたものではないかと推考される。
<筆者>
この石碑は、前述の「40.脇屋義助公廟」の裏手にあります。
石碑の奥が脇屋義助公廟です。
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
40.脇屋義助公廟(脇屋さん)
南北朝時代(1340年頃)、南朝の忠臣であった義助公(新田義貞の弟)は南朝方の勢いをもりかえそうと国分まできたが、不幸にしも急病になり36才で亡くなった。
現在ある墓碑は、江戸時代、国分寺住職や今治藩士が浄財を集めて建てられたもので、今の拝殿は、総けやき造りで大正五年に建てられたものである。
既存の報告を参照願います。
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
39.伊予国分寺塔跡
奈良時代、聖武天皇の命によって桜井国分にも伊予国分寺が建てられた。
(743)、七重の塔の礎石16個のうち13個が今も国分寺の近くにあり、国指定文化財となっている。
この巨大な花崗岩の礎石は1.5~2mの自然石で、表面は頭大の繰形突起があり、経50cm程の繰形座の柱受けが刻み出され、天平時代の荒うち、のみのあとも鮮かで豪壮なものである。
この上にあった七十の塔は二百尺(約60cm)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ貴重な遺構である。
又、当時のおもかげを残すものに布目瓦がある。布目瓦とは、瓦を作る時、丸太に粘土を巻きつけ、外側を麻布で巻いてかためた。
それをあとで、2つに切ってはがすことで、瓦に麻の布目がついたものである。
既報の資料を抜粋して報告します。
国分寺の近くに「史跡 伊予国分寺塔跡」の石柱が建っていました。
(案内板の表示内容)
「史跡 国分寺塔跡
奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。
この巨大な花崗岩の13個の礎石は、1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰形突起があり、径50cm程度の繰形座の柱石が刻み出され、天平時代の粗うちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。礎石間の間隔は約3、6mで多少傾いたものもあるが整然と並んでいる。
調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層のうえに置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。この上のあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である。
大正10年3月3日指定 文部省
史跡・名所の小路 今治市」
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
38.春日神社(木造 流造)
後冷泉天皇の永翔5年8月(1050)に国分寺十二世権、雲海大僧都が国分寺の鎮守として春日神社を勧請して、寺内に社殿を建立し、奉斎したのが本社の創祀であるという。
城主加藤嘉明(筆者注:松山城の建設者で城主)は、慶長16年(1611)辛亥九月に社殿を再建した。
その後、度々の建立造営があったが、明治元年四月、神仏分離の政令によって、合祀の仏体は、別当国分寺に奉納した。
<筆者>
隣は四国霊場59番札所の国分寺です。
春日神社の境内から国分寺の境内が見えます。
更に、正面に廻らなくても、ここから行き来できます。
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
37.沖浦菖蒲谷遺跡
市内では、唯一の大規模な縄文遺跡が菖蒲谷にある。
出土品は、縄文後期から晩期(3000年位前)に至るもので、土器には、深鉢や浅鉢、その外、土錘、石錘、石さじ、石鍬など数千点にものぼり、附近からは、弥生式土器も出土し、古墳もあるので、原始時代の複合遺跡ではないかと言われている。
<筆者>
孫兵衛作から沖浦に抜ける峠をちょっと過ぎた場所です。
近所の老人に聞いても「遺跡の存在を知らない、菖蒲谷も聞いた事がない」との事なので、本書の地図と「谷」から推察して、ここだと思います。
ただ、そんな重要な遺跡がある雰囲気ではありません。
忘れ去られた遺跡でしょうか?
父の三回忌と耕作放棄地の草刈りで帰省中です。雨の少ない故郷は梅雨に入って田植えをします。従ってこの時期に草を苅って他所の田んぼの水路を確保したり、隣の迷惑にならないよう耕作放棄地の草刈りが必要なのです。
私のタブレットでは投稿ができません。写真が真っ黒になるのです。auショップへ行ったらgooブログの設定の問題だと言われ、gooブログに設定の変更を依頼したけど解決していません。数年前まではスイスイとタブレットで投稿できたのに・・・
そういった訳で、帰省中は数年前に取り貯めておいたシリーズものを投稿します。文章は原文どおりです。
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
36.国分寺
聖武天皇は、大変仏教を信仰されていた。
その当時、日本中に悪い病気が流行し、又飢饉で苦しんでいた。
その国民の苦しみを救い、日本の国が平和に治まりますようにと仏様にご祈願された。
そして、天平13年(741)、都に東大寺、諸国に国分寺、国分尼寺を建立するよう命令を出された。
そこで、伊予桜井にも国分寺、国分尼寺を建立することになった。
国分寺は、金光明四天護王国之寺といい、壮大な七伽藍が備わり大きな七重の塔が建ち、20人の僧が勤務した。
現在の国分寺は四国霊場五十九番札所、金光国分寺という。
寺地の選定については、「其れ造塔之寺は、兼ねて国華たり、必ず好処を択で実に長久たるべし。
人に近ければ薫臭の及ぶをおえる。
人(里)に遠ければ衆人は参集を厭うであろう。」と、かくて伊予には寺伝によると奈良の都から、本性上人が下向され、国司と共に適した土地を探し現在の塔礎のある桜井郷半田里の一角(字国分)を寺域と定めて奏問しました。
ここは、国府から十町余りを距だて、三方に山を廻らせて、南に開けた真に創建の詔にかなう勝地であり、検分も終わって直ちに七重層塔建造の準備にとりかかりました。
規模は、七重の塔を中心に金堂、講堂、経蔵、鐘楼、僧房、中門、南大門等いわゆる七堂伽藍を廻廊によって囲むという大したものでした。(図参照)
<筆者注:図の添付無し、図を付けようとして忘れたのか、図を書くつもりだったが何らかの理由で完成・発行を急いだものと思います。誤字脱字が多いことや対象によってはたった一行で終わっているものがあったりして完成度が低いので、後者だと推測します。>
(国分寺炎上)
〇藤原純友の乱の時、炎上(989)
〇源平の戦の時、額(奴可)入道のため、炎上(1181)
〇室町幕府、第二代将軍義詮と執事細川清氏がうまくいかず、清氏は南朝に帰順しましたが、討死しました。その時、清氏追討を命じられていたのが細川頼之と伊予の河野善恵でしたが、河野が秘そかに清氏と通牒していて兵を送らなかったという風聞のあることを理由に、頼之は、この際一挙に伊予を攻略しようと進撃してきました。この時、河野方は世田城にて防戦しましたが、急のことで防備も整わず敗れました。その残兵は府中(筆者注:伊予の国には、道前・府中・道後の平野があります)に退き、国分寺を根拠に抗戦しました。この戦で国分寺は12月頼之の為焼かれました。
その時、法華寺も焼かれたとの事です。(1361)
〇豊臣秀吉の四国征伐の際、伊予の守護は河野氏でしたが、天正13年7月(1585)、小早川隆景は、3万余騎をもって一手は新居郡宇高に、又、一軍は桜井浜に上陸して国府城、石井山城、老曾城、鷹取城を攻略し、進んで野間郡、風早郡に侵入しました。国分寺は、この時か、前年の長曾我部元親の侵略の時、炎上したといわれています。
建設現場に出逢いました。
亀島川沿いの路地です。
重機の向こうは川です。
こんな場所です。
作業中の重機が掘り出しているものがちょっと異様でした。
掘って脇に集めているのは木の杭です。この界隈は低地で地盤が緩い場所だったと思います。前の家を建てるに際して地盤強化の為に大量の杭を打ち込んだのでしょう。
悔いが残らないよう地盤強化に万全を期した結果、こうして杭が残りました。
小学生の頃「少年画報」を買って貰っていました。「ゼロ戦太郎」が好きでした。読み物だけでなく、紙製の工作物等の「付録」が付いていて2度・3度楽しめました。
お正月号には「双六」や「福笑い」が付いていました。その後「少年マガジン」等週刊誌の時代に入る狭間の時期です。
やがて週刊誌の圧勝で月刊誌は廃版となってしまいます。ここがその少年画報を発行していた会社に違いありません。
社屋の前の自販機もそれらしいラッピングです。「ドリフターズ」って、カトちゃんが居た、あれじゃないですよね。
自販機に続いて、おそらく現在掲載している作品だと思うのが陳列されています。
今でも少年画報ってあるんだろうか?
おっ!?ありました。懐かしいですが、これは私が読んでいた頃の月刊誌の展示でしょう。私はもう60年近く、今でも毎週「少年マガジン」と「少年サンデー」を買い続けているので少しは知識がある筈ですが、ここに展示されている作品を一つも知りません。週刊誌でなく、単行本を発行している会社ですかね?
懐かしく見入りました。
亀戸4丁目交差点脇にある煎り豆屋です。鳩は豆が大好きです。庇の上で隙を窺っています。
猫が気配を察します。
鳩が店先に降りて来ました。
バラバラと降りて来ます。
また来たか。
やれやれ。
どうだ!
ん!? 今度はこっちか・・・
都電荒川線の尾久3丁目駅の北側の路地に迷い込んでいると、大きな2本の銀杏に守られているような、小さな祠に出会いました。
祠前に説明板が立っていました。
不思議な話ですね。
斜めから見ます。雰囲気あります。
屋根の下には「出世石尊」とあります。説明板には、現在も続けられている「出世講」とあります。
篇額を真横から。
左側の庚申塔を見ますが読めません。説明板によると、元禄11年の記載があるそうです。
左斜めから見ます。銀杏にすっぽりと覆われています。守られているように見えます。
右側には「湯殿山 月山 羽黒山 三社供養塔」です。関東には古くから富士山とこの三山等、山岳信仰があって、各地でこのような石碑を見ることができます。
この土台石には「當村講中」、石碑には「天下泰平」や「村内安全」の文字も見えますが、他の文字は意味が分かるようには読めません。
引き戸は針金で固定されていますが、中が気になります。
引き戸の取手口から覗きました。
・・・どの石が説明板にある「地より二尺ばかり生えた異形の出世石」だか分かりませんでした。
出世石を後にします。今度はいつ行き当たることでしょう・・・
雑司が谷を散策しています。
白い塀と壁が木漏れ日に、清涼感があります。
足が止まりました。
門扉の水紋模様が清涼感を引き立てます。
屋敷林の緑です。
木漏れ日の庭の緑です。
散策に戻ります。
雑司が谷の丘からの景色です。
この道をやって来ました。
丘を下って行きます。真夏を思わせる陽射しです。
深緑の霊園です。
木漏れ日の下は涼しく静かです。
紫陽花はまだ咲きません。
この端正な墓石は泉鏡花です。暫く佇みます。
木漏れ日の道を移動します。
日当たりの良い場所には夏目漱石です。
妻の要望で愛用の椅子をデザインした墓石です。
木漏れ日の道を行きます。
ここに竹下夢二を埋めています。
後ろ姿がその作品がを連想させます。
見上げます。大木の向こうの空が、夏の気配です。
深緑の季節です。
緑豊かな庭を巡ります。
日陰から日なたに出ます。
館の白が引き立ちます。
日陰と日なたと晩春の空です。
陽射しに映えます。
暫し庭の木陰のベンチで眺めます。
花咲く庭を振り返ります。
木漏れ日のカルミアです。
日なたの薔薇です。
杉と館です。
白と色んな緑です。
ここにもカルミアです。
二階を見上げます。
玄関と庭園を見ます。
日陰の白と緑です。
日なたと日陰の空間の空です。
庭をぐるりと巡りました。
空を見上げます。晩春の空です。
雑司が谷の街に煉瓦通りがあります。
旧宣教師館へ行く路地です。
門前にも建物を描いた色煉瓦があります。
足を踏み入れます。
深緑の季節です。ポーチにあかりが点っています。
深緑に佇む白緑の館が鮮やかです。一番美しい季節です。
室内灯が点っています。
裏口から玄関を見通します。
あかりを追います。
ポーチのあかりです。
裏口を見通します。庭の深緑が見えます。