「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。
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さて、ここからは鑑真和上の眼の話題ですが・・・
「742年、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡、普照から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、753年、6回目にして遂に日本の地を踏まれました。」(同上> 鑑真大和上)
ということで、日本に着いたときにはほとんど目が見えなかったか すでに失明していたというのが定説のようですが・・・
奈良国立博物館学芸部長の西山厚氏は、「鑑真和上が来日してきた時、完全に目が見えなかったのではなく、ぼんやりとは見えた可能性が高い」との説を述べています。
根拠となったのは、753年に来日した鑑真和上が翌年、東大寺に経典の借用を申し出た際の書状で、鑑真が750年ごろに失明したとされることから、弟子の代筆との見方が定説となっていました。
西山室長は、現存する弟子たちの筆跡がいずれも書状の字と一致しないと指摘。弟子が鑑真の署名を行書体で書くとは考えにくいことなどから、代筆の可能性は低いとしています。
和上の姿を伝える資料で最もよく知られているのが亡くなる直前に弟子たちが制作した像で、禅定印を組んで瞑想する「鑑真和上坐像」です。
その眼は固く閉じられていますが、渡来から入寂まで10年近くあり、渡来時の様子を伝えるものではありません。
失明を記した『唐大和上東征伝』(奈良時代)について、西山部長は「文学的要素が多く、100%事実か考える必要がある」と話されます。
鎌倉時代の伝記絵『東征伝絵巻』には、目をはっきり開いた鑑真和上が描かれています。難破して洋上に漂う姿はもちろん、渡来後の描写にも不自由さは感じられません。
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