外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

山城

2011-08-22 20:59:22 | 社会全般
かなり身構えて迎えた月曜日でしたが、大過なく業務を終えることができました。

しかし、当分の間は現在のドル円相場と低調な株式相場を前提としていかなくてはなりません。

その前提でも生き抜くことのできる体質へと、金融業界も一般産業界も、そしてビジネスマンも、自己変革していくことが大切です。

民間企業は国に期待しないこと、
そして、国は民間企業の活動を邪魔をしないことです。

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ところで、京都の「山城」という地名を耳にした時、私は二つ連想するものがあります。

一つは、京都府立山城高校。
法学部で仲の良かったクラスメートで、卒業後に野村證券に進んだSくんが山城高校出身でした。

彼の自慢の先輩は、サッカーの釜本選手(山城高校-早大)とプロ野球の吉田義男選手(山城高校-立命館-阪神)
コンパの席で山城高校を語り始めると、いつもエンドレスとなるSくんでした。
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もう一つ、私が連想するのは、旧帝国海軍の戦艦_山城。
私の父が若かりし頃、海軍経理学校の将校生徒として乗り込んだ練習艦が、戦艦山城でした。

山城は、扶桑型戦艦の二号艦として大正4年に就役。
当時としては、初めて排水量が3万トンを超える、日本最大の戦艦でした。


最大速力が24.5ノットと鈍足でしたが、主砲:36cm12門、副砲:15cm14門、高角砲:12.7cm8門という、世界最高水準の強力な砲撃力を有していました。

例えば、副砲と高角砲だけで巡洋艦3隻分ぐらいの火力に相当します。
そこに巡洋艦が搭載することのできない大口径の主砲12門が加わるのですから、就役当時は、「扶桑と山城を太平洋に配置したら、日本を攻めてくる国はどこにも無いだろう」というぐらいの信頼を集めたようです。

YouTubeで、山城を含む戦艦群の映像がありましたので、ご覧ください。
この重量感は、半端ではありません。

携帯用リンク
PC用リンク

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しかし、扶桑型戦艦は基本設計に問題があり、就役後も度重なる改装を余儀なくされました。
艦隊に配備されて運用されている期間よりも、ドックに入っている方が長いという状況であったようです。

第二次大戦が勃発すると、空母を伴う機動部隊が作戦の主役に。
扶桑型戦艦は、その鈍足がネックとなり、開戦後も国内の基地に留まらざるを得ず、山城は練習艦となりました。

私の父が乗艦したのは、その時期の山城でした。
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飛行機の時代に完全に置いてきぼりをくった山城でしたが、昭和19年10月25日に、遂に出撃命令が出ました。

飛行機の援護がない状態でレイテ湾に強引に突入し、輸送船団を撃破した後に上陸部隊を攻撃すべしという無謀な作戦でした。

暗闇の中で日米の戦艦同士の壮絶な砲撃戦が展開されました。
しかし、レーダー装備を持たない山城は、敵艦隊の集中放火を浴びて、弾薬庫が大爆発を起こして轟沈。
乗員1400名のうち、生存者は10名足らずという、悲しい最後でした。

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戦艦山城の壮烈な最後を想像する時、艦と運命を共にした乗員の中に、かつて練習生として乗艦した私の父の面倒をみてくださった水兵さんも、いらっしゃったと思うのです。

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スリガオ湾で、壮烈に戦死された戦艦山城の乗員の方々にお世話になった父。
その父の子として生を受けた私。

私にできることは、ただ一つ。
日本が二度と戦禍に巻き込まれないように努力することだけです。
Comments (5)
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