紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

どこでも我が家?

2007-08-13 23:03:51 | 70’s
 子どもの頃は、日曜日毎に、村中(20世帯ほど)のおじいさんやおばあさんが我家に集合した。たまに除草作業や、お餅つきや、お正月の準備や、除夜の鐘突きのお手伝いに、ご近所や世話役のおじさん、おばさんが我家にやってきた。

 いや、正確には我家でなく、山寺に、である。

 そんなわけで村中のオトナやお年寄りは、私をよく見知っていたし、私もたいていの人のおウチと顔と名前は一致した。もっとも名字はみんな同じなので、名前で呼ばれる人の方が多かった。

 しかも、別段なんでもない日に、お寺の方でなく我家の居間に、おばあさんやおばさんが3,4名集い、あれこれとおしゃべりをしていた。大人しい母は、ひたすら聞き役に徹していた。

 大抵は農家の主婦で、主婦業と農業にあけくれていたが、そのなかに1名、異色の陽気なおばさんがいた。自営業で自転車やバイクを扱うおじさんの妻であり、ご自身は小学校の「給食のおばさん」をしていた方である。一人娘さんは、すでに若い娘さんで働きに行かれていた。

 自営業でお店をされていたのに、ものすごく小さな家で、土間に自転車やバイクや部品やタイヤがひしめいていた。ひしめいていてもまだ足りずに、天井からも自転車がさかさにぶら下がっていたりした。でもそれが、とにかく子供心に「かっこいい!!」と思われた。そんな「かっこいい!!」土間が半分くらいを占めていて、残りは4畳半くらいの畳の部屋で、もしかしたらそこに台所なんかもあったのかもしれない。お店の奥にトイレやお風呂場があったのかもしれない。屋根はトタンで、まるで終戦直後に建てたバラックのまま、みたいな感じだった。

 そのおばさんが(おじさんも)えらく私を可愛がってくれて、同じ年頃の子どもがいるわけでもないのに、よくその家に遊びに行き、自宅のようにくつろいで、白黒テレビで手塚アニメの「ワンダースリー」なんかを観ていた。

 夏になれば、穴のあいた浮き袋を持って行き、修理をしてもらった。水を張ったたらいに空気を入れた浮き袋をつけて、泡がでる箇所を探すオジさんをみるのは、わくわくした。パンク修理と同じである。

 もっとも私が中学生になる頃には、懐かしいバラックを引き払い、商売に向く車通りの多い道沿いに一戸建てのお店を作り、同じ村中ではあるけれど引っ越された。と同時にバラックは解体され、隣の家の農作業用の納屋になった。地所を借りておられたのだろう。

 いまでも裸電球のぶら下がった土間と、自転車にさすアブラの匂いと、雑然とした二輪車の群は、くっきりと思い出せる。おじさんの歯の抜けた笑顔や、肝っ玉かあさんのような風貌のおばさんもね。