紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

ひとりにならないで。

2008-03-02 23:04:18 | テレビ
 登下校をする子どもたちの話ではない。

 いや、もちろん子どもたちの安全も大事なのだが、果たして大人の目にさらされつづけることで、子どもたちに与える(悪)影響を考えると、こんな不安な社会になってしまったことに憤懣やるかたない。

 むしろ子どもは「ひとり」でいる時間にいいにつけ、悪いにつけ「なにか」を体験することがいわゆる「生きる力」になるんだと思うんだけど。それはともかく。

 先週の「ちりとてちん」秀臣ウイーク(!)の話だ。なぜ彼は塗り箸修行を投げだしたのか、その後どういう心境となり、事業を発展させたのかが克明に描かれていた。

 彼は自分の技術が未熟なことに焦り、絶望していたのだけれど、それを「ひとりで悩んだあげく」「ひとりで修行を辞めるのを決断した」のだ。

 脚本家の藤本さんは、繰り返し「ひとり」で居ることに対し、警告を発している。喜代美が草々の破門を例に出して、(たとえどんな同情すべき理由があっても)子が親に心を開かず去って行けば、どんなに親の心が(子どもを許せなくなるくらい)傷つくのかを語っていた。藤本さんにとっては、「ひとり」でいることは誰とも信頼関係を結べないという意味で、許されざる罪なのかもしれない。

 そういえば喜代美が草若宅に転がり込んだとき、草若が
「おじょうちゃん、ここにいたら? ここにいたら、ひとつだけ、ええことがある。『ひとりやない』っていうことや」って言ってたなあ。

 そして喜代美は天才的に人を繋いでゆく。人と人とを繋ぎ、自分も人と繋がって行く(そのあまりの不器用さ、ダメさ加減のせいで、だれも彼女をほおっておくことができないのだ・笑)。それが彼女の不器用さ、出来の悪さを補ってあまりあるのだ。

 どんなに酷い状況でも、ひとりじゃなければ手だてはある。人が繋がることによって生まれるなにかしらの力の不思議さを、藤本さんは熟知されているのかもしれない。

 いろいろ思い出してみたら、そもそも喜代美は大阪に出てきたものの結局A子のマンションに転がり込み同居したあげく、たかが「エビチリ」の料理の仕上げをA子に盗られた、というだけのことで、マンションを飛び出し、草若と出会うのである。
 ついでにいうなら「エビの背わた取り」のような地道な努力こそが夢の土台になる、とも読み取れる。土台の無い華やかさは、所詮あだ花にすぎない。
 そう、フィクションとはいえ、人生って不思議。いやほんと、こんな風なしょうもないきっかけで、人生って大きく変わったりするんですよね。