8月14日、前回に「4月に首を切られた」と書いたKさん宅に伺いました。自動車保険の継続手続きでした。今まではKさんの勤め先の会社を訪ねていたので、今回が初めての訪問です。
質素な、だけど掃除の行き届いた小ぎれいな平屋のお家でした。
Kさんに挨拶し、少しだべっていたら、隣の部屋からお母さんが顔を出してくれました。足が悪いようで、両手で這って、私たちの居る茶の間に上半身だけ出されたのでした。
「口ばっかり達者で、何にもできない…」とぼやいてましたが、ほんとにちっとも惚けていない感じのはきはきしたおばあちゃんでした。93才と言われましたが、話していては、まだまだ80才代半ばにしか見えませんでした。Kさんとそっくり。
自動車保険の継続手続きをしながら、Kさんのその後の話を聞きましたが、やはり仕事は見つからず、今も介護の研修を受けているとのことでした。
話になったのは、Kさんや私の知り合いで同じように失業した人のことや、介護の資格を取っても、40才過ぎではなかなか就職できないらしい・・・などということでした。「どっかあったら頼みます」と言われましたが、情けないことに、明るい話をすることができませんでした。本当に悔しい。
「失業保険が切れたらどうやって暮らせばいいの?」
「首切り自由っておかしいよねえ」。
なんと言って励ましたらいいのか、分かりませんでした。
今日(14日午前)のKさんのことが頭から消えないまま、先ほど『朝日新聞』の14日付け朝刊の「社説」、「成熟日本に新産業革命を」を読みました。
驚きました。
つい半月ほど前までは、あれ程に「格差社会」を指弾し、「ワーキングプア」や雇用不安を問題視してきたマスコミ、とりわけ『朝日新聞』が、今や、「新産業革命」を唱え、「規制緩和や投資減税などの政策誘導…」「経済成長のための戦略は、内外でもっと民間活力を引き出すとともに、政策の相乗効果を発揮できる総合設計とすることが必要だ。」「国民の受益だけでなく、産業構造の転換に伴う痛みや負担増についても積極的に説明し、理解を求めなければならない。」などと主張しているのです。
「規制緩和」と「民間活力」の行き過ぎ、野放し、それが格差や雇用不安を増幅させてきたのではないですか。なのに、問題解決のために、さらなる「規制緩和」を強調しているのです。
働く者とその家族にとっての最大問題、雇用不安には一言も触れていません。
「雇用不安」ではなく、「労働力確保」が難しくなる…と言うのです。(「超高齢化が進むと、労働力確保や年金・医療保険制度の維持が難しくなる。その不安がいま消費を委縮させている…」)
これでは、生活者の視点とその現実を見失い、経営者の視点にどっぷりです。
Kさんのような事例は、それこそ山のようにあるのではないですか? それに眼をつぶれと言うのですか?
それとも、Kさんに「産業構造の転換に伴う痛み」として、ガマンを「説明しろ」と言うのですか?
大朝日新聞の編集氏よ、一緒にKさんのお宅に行きましょう。あなたが、どのように「産業構造の転換に伴う痛み」を「説明」するか、勉強させていただきます。
いつ、同行をお約束していただけるか、私にも楽しみができましたよ。
14日朝のテレビ朝日の「スーパーモーニング」でも、口あんぐり、でした。
ある主要政党の政策を取り上げて、「公務員の人件費の総額の削減は書いてあるが、人数で何割削減するかが書いてない」と声高に批判していました。
そんなに「首切り」が素晴らしいことですか? 首を切られた人の家庭はどうなるのか、それを考えての発言でしょうか? 私の父も2度首切られましたから、私は子どもの心にまで一生の傷がつくことを知っています。
最近の世相は、とりわけ一部マスコミや政・財界人には、人間の首を切るという死活問題を、あまりにも簡単に取り上げる傾向があります。人間が人間の心を失っている証左でしょう。
今回のことから、結論として、
① 少なくとも、首切りには、それが不可欠だとする社会的な妥当性と合理性がなければならないはずです。あまりにも安易な首切りが横行していませんか。
“首切り”が自由なわけがない!
② 『朝日新聞』の長年の愛読者の一人としても、最近の貴紙にモノ申す。
権力に対する厳しい眼、言いかえれば、庶民に対するあたたかい眼差し、これが無くなったのではないですか。残念です。