現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

僕のワンダフルライフ

2017-10-15 18:24:31 | 映画
 主人公の犬が、何度も生まれ変わりながら、最初の飼い主に幸せをもたらすというハッピーストーリーの映画です。
 最初は産まれてすぐに野犬捕獲員に捕まって短い生涯を終えた主人公が、その後四度も生まれ変わって、最後には孤独な初老の男性だった最初の飼い主にめぐり合って、彼の高校時代の恋人(二人の孫がいますが、配偶者はすでに亡くなっています)と引き合わせて結婚させます。
 ストーリー自体は、ご都合主義やドタバタ劇の連続の他愛のないものです。
 見どころは、なんといっても犬の視点を生かした映像の美しさと、生まれ変わった犬がどれも特徴的で魅力的なことでしょう。
 最初の生まれ変わりはゴールデン・リトリバーで、賢く飼い主思いです。
 二番目はジャーマン・シェパードで、優秀な警察犬で、飼い主の身代わりになって殉職します。
 三番目はコーギーで、究極の癒し犬で、ここでも恋のキューピッドになって、飼い主に幸せな結婚や子どもたちをもたらします。
 四番目は雑種で、心無い飼い主に捨てられますが、ふとしたことから最初の飼い主に巡り合って、持ち前の飼い主思いの本領を発揮します。
 また、飼い主の方にも様々な人種を配していて、巧みにアメリカ社会を反映しています。
 最初の飼い主は白人の八歳の男の子で、成長してからは高校のアメリカン・フットボール・チームのクォーター・バックになって活躍しますが、妬みによる放火で怪我をして大学の奨学金も失い、恋人とも別れます(さらに、父親は酒で身を持ち崩して、離婚して家を出ます)。
 二番目はヒスパニックの優秀な警察犬担当の男性ですが、愛する人と別れていて孤独です。
 三番目は裕福な黒人の女子大学生ですが、人見知りで大学では孤独でした。
 四番目はいわゆるプアー・ホワイトのカップルで、生活には全く余裕がありません。
 時代背景も、1961年から現代までの長期間なので、その間のアメリカの世相の変化をさりげなく描いています。
 私は最初の飼い主とほぼ同世代なので、バックに流れる音楽やアメリカの風俗を懐かしい感じで味わえました。
 この映画は、犬の姿を借りた成長物語(何度も生まれ変わりますが、意識や記憶は引き継がれています)で典型的なハッピーエンドなので、妙な言い方になりますが非常に児童文学的な作品でした。
 

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村上しいこ「図書室の日曜日」

2017-10-15 11:21:39 | 作品論
 日曜日でお休みの図書館で、本たちやその中の登場人物たちが動き出します。
 この手のお話は、アンデルセンの「なまりの兵隊」やアニメの「トイストーリー」など、すでにたくさんあって特に新味はありません。
 また、古今東西の本の登場人物や妖怪がたくさん出てくるのですが、対象と思われる幼年の読者には、予備知識がなくてあまり面白くないと思われます。
 児童文学者の宮川健郎は、「「声」をもとめて」という論文で、村上しいこの作品群を「ナンセンス文学」として以下のように述べています。
「ことばを連ねても意味が積みあがらないのがナンセンスの世界だ。ナンセンスは、ことばによって律儀に意味を積みあげ、その結果、主人公が成長するという枠組みの中で書かれることが多かった現代児童文学からの「自由」の獲得ともいえるだろう。子ども読者にとっては、ことばの秩序に縛られた日常からの解放につながるだろう。」
 しかし、この作品では、言葉や登場人物(?)が良く吟味されておらず、単なる思いつきのように感じられました。
 おそらく「村上しいこ」ブランドで、編集者も無批判に本にしているのでしょう。
 そんな単調な作品を、ここでも田中六大のレトロなタッチの挿絵がだいぶ救っています。
  
 
図書室の日曜日 (わくわくライブラリー)
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講談社
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宮川健郎「童話の系譜」日本児童文学の流れ所収

2017-10-15 11:19:31 | 参考文献
 講師は、散文・説明的なことばで書く現代児童文学に対して、詩的・象徴的なことばで心象風景を描くものを「童話」と定義しています。
 小川未明、宮沢賢治、立原えりか、安房直子、斎藤隆介、あまんきみこ、江国香織など、大正期にはじまり現代につづく、「童話」の系譜をたどって、その思想と方法について考えるとしています。
 最初に、講師が現代の代表的な童話作家(教科書に取り上げられている作品数が断トツに多いそうです)だとする、あまんきみこのデビュー作「車のいろは空のいろ」(1968年)を取り上げています。
 そして、現代児童文学を代表する論客である古田足日の評価(「現代のファンタジィを(1)」〈児童文学時評〉『学校図書館』1968年7月号初出/古田足日『児童文学の旗』理論社(1970年)所収)を紹介しています。
「あの本の作品はすべて長編の出だしだと思った」
「くましんしのイメージは新鮮だが、タクシーの運転手がそのくまと出あう、という創作方法はどうなのか。連続する人生の一部を切り取り、人生の一断面をのぞかせる、というこの方法は、過去の童話の方法であった。」
「くましんしに出あうのは物語の発端であり、そこから「何か事件がはじまるべき」なのである。そして、その物語の展開の中で、くましんしのイメージはより豊かに、よりあきらかになっていくはずだ。」
 ここには、あまんきみこの童話性と現代児童文学の思想の対立があると、講師は述べています。
 他の記事にも書きましたが、1950年代の「童話伝統批判」は、現代児童文学の成立に大きく寄与しました。
 その「童話伝統批判」は、古田足日も所属する早大童話会「『少年文学』の旗の下に!」(「少年文学」1953年9月)によって、口火が切られました。
 講師は、彼らの「童話伝統批判」をささえた問題意識は、詩的・象徴的なことばで心象風景を描く「近代童話」では子どもをめぐる状況(社会)を描くことができないので、散文的・説明的なことばで描く「現代児童文学」が必要になったとしています。
 一般的には、1959年に、佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の、いずれも小人の登場する長篇ファンタジーが出版されてから、現代児童文学は成立したとされています。
 講師は、それらが「戦争体験が下じきになっている」と指摘して、当時の新しい書き手には、共通体験としての戦争があり、それを描くことが共通テーマだったとしています。
 それはその通りなのですが、そこから「戦争」を描くために、「現代児童文学」では散文性の獲得が必要だったとする講師の意見には、論理の飛躍があるように思われます。
 まず、講師自身が小川未明の例をあげているように、「戦争」を描く方法としては、必ずしも散文・説明的なことばで書く「現代児童文学」の長編だけではなく、詩的・象徴的なことばで描く「童話」の短編(今西祐行「ひとつの花」など)でも可能です。
 次に、「童話伝統批判」が行われたころの1950年代の社会状況(労働組合結成、労使対立、60年安保闘争など)を考えると、彼らが「現代児童文学」が描きたかったものは、「戦争」(実際には「反戦平和」と言った方が正しいでしょう)よりも、「階級闘争」の方が強かったのではなかったのではないかと思われます。
 なぜなら、講師自身が整理している「現代児童文学」の問題意識のひとつである「変革の意志」は、明確に「社会の変革につながる児童文学をめざす」としていて、その作品としての最初の結実は、前述の早大童話会のメンバーであった山中恒の「赤毛のポチ」(労働組合結成も描いてます)だったからです(関連する記事を参照してください)。
 しかし、この路線(社会主義的リアリズムと呼んでいます)は、その後の山中恒の離脱などもあって行き詰まり、「現代児童文学」が描く主な社会状況は、1960年代に入ってから講師が指摘するような反戦平和(「戦争児童文学」)などに変わっていったと思われます。
 ただし、詩的・象徴的なことばで描く「童話」が長編に向いていなくて、長編を書くためには散文・説明的なことばで書く「現代児童文学」が必要だったという講師の指摘はその通りだと思います。
 講師は、現代童文学のなかの童話の系譜として、ここでも古田足日の言葉を紹介しています。
「彼女たち三人(あまんきみこ、安房直子、立原えりか―講師註)は、ぼくの見方では小川未明の正統な後継者である。」(古田足日「あまんきみこメモ」(「国語の授業」1986年2月)。
 そして、講師は
「未明は古田さんが「さよなら未明」といった人なのですから、「正統な後継者」というのは古田さんにしてみればいささか複雑な思いで眺めた人たちではないかと思います。」
と、述べていますが、この意見には異論があります。
 他の記事にも書きましたが、この時点で古田足日はすでに優れた「童話」(小川未明も含めて)が「現代児童文学」ではカバーできない領域を補完するものであることを正しく認識しています。
 ただし、それは「童話」という形式そのものを全面的に認めたわけではなく、「童話的資質」(おそらく古田足日は自分にはない資質だと思っていたはずですし、もちろん私にもありません)に恵まれた人の作品には、「子ども(人間)の深層に通ずる何かを持っている」と考えていたのです。
 それが、あまんきみこ、安房直子、立原えりかを小川未明の正統な後継者として認めたり、今西祐行の作品を積極的に評価することにもつながっているのではないでしょうか。
 おそらくこれは、実際に「童話」や「現代児童文学」を創作したり、同人誌などでそれらが創造される現場に立ち会わないと、実感できないと思われます(三十年間以上たくさんの児童文学の書き手と交流してきましたが、「童話的資質」の持ち主はその中のほんの数人です)。
 講師は、その他の現代児童文学における「童話」の担い手として、斎藤隆介、江國香織をあげていますが、斉藤隆介はその通りだと思いますが、江國香織は典型的な現代の小説家だと思っているので、ピンときませんでした。
 ふたたび、あまんきみこに戻って、
「「車のいろは空のいろ」には、日常世界の秩序にダブって、「何かちがったもの」が顔をのぞかせる、めまいするような、〈もうすこしでハンドルをきりそこなう〉(「くましんし」)ような一瞬が切りとられている。『車のいろは空のいろ』は、「日常」という時が翳る、その瞬間をつかまえ
ようとした連作集ではないか。(宮川健郎「時の翳り―あまんきみこ『車のいろは空のいろ』再読」、宮川健郎「国語教育と現代児童文学のあいだ)所収)」
と、自身の論文を引用して、宮沢賢治の作品を連想するとしています。
 そして、佐藤さとるが宮沢賢治を否定的に評価していたこと(佐藤さとる「ファンタジーの世界」(1978年))を紹介して、同じ不思議な世界を描いた作品でも「童話」と「現代児童文学」では違うことを述べています。
 しかし、佐藤さとるは、ここでは、「童話」と「現代児童文学」というよりは、「メルヘン」と「ファンタジー」と言う形式の違い(詳しくは関連する記事を参照してください)を述べている(佐藤さとるはファンタジー側の人間なので、とうぜんそちらの視点で眺めています)にすぎないと思われます。
 最後に、講師は、「現代児童文学の成立と「声」のわかれ」という非常にロマンチックな呼び方で、石井桃子の「子どもから学ぶこと」(「母の友」1959年12月号)というエッセイ(出版されたばかりの佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」を、読み聞かせにむかないと批判しています)を紹介して、「近代童話」から「現代児童文学」へ移行する際に、読者の読み方が音読から黙読へ移行して、読者対象も幼い読者から十代の読者へ児童文学の読者層の中心が移動したと述べています。
 それは、講師も指摘しているように、日本の児童文学界評価する作品が高学年向けに偏重しているにすぎなくて、実際には夥しい数の幼年文学(幼年童話)は出版され続けています。

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
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