現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

谷川俊太郎「わたし」

2017-10-18 17:47:43 | 作品論
 1976年発行の長新太によるさし絵のついた古典的な絵本です。
 有名な福音館の「かがくのとも」シリーズの中の一冊です。
「わたし
 おとこのこからみると おんなのこ
 あかちゃんからみると おねえちゃん
 おにいちゃんからみると いもうと
 おかあさんからみると むすめのみちこ
 おとうさんからみても むすめのみちこ
 <中略>
 がいじんからみると にほんじん
 うちゅうじんからみると ちきゅうじん
 <後略>」
 という風に、「やまぐちみちこ」という女の子が、他から見るとどう見えるかを延々と述べていきます。
 単純な繰り返しの中で、「わたし」を多面的的に捉えることができます。
 谷川の簡潔な言葉と、長新太のこれまた簡略化された絵が、独特のリズムを生み出して、子どもたちが大好きな「繰り返しの手法」がうまく生かされています。
 児童文学作家で研究者の村中李衣は、「あいまい化される「成長」と「私」の問題」(日本児童文学1997年11-12月号所収、その記事を参照してください)という論文で、以下のようにこの詩が主体を欠いているのではないかと指摘しています。
「人は、いろんな人の関係で、沢山の呼ばれ方があり、役割もある、ということは分かるのだが、何か大事な核が抜けている気がする。多分それが「主体の欠損」であると思う。例えば「がいじんからみると」と書いてあるが、この男を「がいじん」と呼んでいるのは誰なのか? 語りの主体が、やまぐちみちこ自身であるならば、「トムからみるとわたしはミチコ」と語るかもしれないし、「やつからみると、へんな子かな」と語るかもしれない。しかし、この文章の中には、はっきりした「主体」の居場所がない。」
 たしかに、この絵本が幼い読者に手渡されたときには、作者の「主体」、登場人物の「主体」、そして読者たちの「主体」が、うまく絡まりあわない恐れはあるかもしれません。
 おそらくこの欠損を埋めるためには、媒介者(作者と児童文学の読者である子どもたちを結びつける存在で、両親などの家族や、幼稚園や小学校の先生、図書館の司書、読み聞かせのボランティアなどのことです)が、幼い読者に「やまぐちみちこ」を読者自身に置き換えて読むことを示唆すればいいのではないでしょうか。
 そうすれば、作品世界が絵本の中にとどまらず、読者のまわりにまで広がりを見せて、子どもたちはこの絵本を自分のこととして楽しめるようになると思います。

わたし (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん)
クリエーター情報なし
福音館書店
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