現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

記事の参照方法について

2017-10-11 14:11:00 | お知らせ
 記事がたくさんになるにつれて、それぞれの記事の中に、(XXの記事を参照してください)という記述がだんだん増えてしまいました。
 それは、同じ内容のことを繰り返して書くことを防ぐ(それでもかなり繰り返してしまっていますが)ためと、記事が必要以上に長くなることを防ぐために、記述しています。
 慣れていない方の参考までに、記事の参照方法を書いておきます。
 「現代児童文学」のページの右上に、「検索」という欄がありますので、そこへ、例えば、「現代児童文学」とか、著者名とか、本や論文の題名とかを記入して、その横の欄で必ず「このブログ内で」を選択してから、「虫眼鏡マーク」をクリックしてください。
 そうすれば、関連する記事がリストアップされますので、その中から必要な記事をお読みください。
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石田千「きなりの雲」

2017-10-11 13:56:12 | 参考文献
 エッセイストである著者の初めての長編で、芥川賞の候補になった作品です。
 主人公は四十すぎの独身女性で、恋人に振られて半年間食事もままにならないぐらいに落ち込んで体調を崩します。
 この作品では、主人公が周囲に癒されながら立ち直っていく姿を、丹念に綴っていきます。
 古いアパートの老人や赤ちゃんも含めた隣人たち、編み物教室の生徒たち、舞い戻ってくる元恋人、その元恋人が始めるレコードショップ、主人公の会社の先輩で個人商店をやっている夫婦、その妻の方の恋人で羊毛を作っている青年などの周辺の人物との触れ合いが、繊細なタッチで描かれています。
 この作品に漂うレトロな手作り感覚は、現代の高度資本主義社会のアンチテーゼとして機能して、そういった生活に疲れた読者たちに癒しを与えるのでしょう。
 しかし、登場人物(特に主人公と元恋人)の未成熟さは、その年齢を考えるとあまりにひ弱い感じがします。
 作者の作り上げた世界で庇護されている範囲では生きていけるかもしれませんが、これでは実社会ではとても成り立ちません。
 元恋人の開いたレコードショップはすぐに行き詰りそうですし(演歌も取り扱うことを匂わせていますが、この難しい商売への取り組み方は、別の記事で取り上げた「東京右半分」に出てくるこういったショップの人たちの苦労に比べてあまりに安易です)、主人公の危ういその日暮らしも長続きは難しいでしょう。
 それを典型的に表しているのが、小さなエピソードですが主人公と同じアパートにしばらく存在していた裏社会の人間たち(銃器などの密輸団と思われます)に対する主人公の考え方です。
 その人たちが礼儀正しかった(引っ越しのあいさつの品を持ってきた、盛り塩をしていた、きちんと挨拶をした、周りの清掃をきちんとしていたなど)というだけで、反社会的な勢力の人間たちに好意をもつというのは、四十過ぎの人間としてはあまりにも未熟で、その点だけでもこの作者の思想(懐古調で反動的)が透けて見えてしまいます。
 また、自分をふった元恋人との関係をずるずると復活させる作品の終わり方には、最近の未婚女性に現れているジェンダー観の揺り戻し(自立するよりも男性に寄りかかりたい)が感じられて好感が持てませんでした。

きなりの雲
クリエーター情報なし
講談社
 
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安藤美紀夫「手品師の庭」でんでんむしの競馬所収

2017-10-11 13:52:41 | 作品論
 作者の代表作(1972年に刊行されて、翌年の児童文学関連の賞を総なめにしました)である「でんでんむしの競馬」の巻頭作です。
「露地には、ときどき表通りにはおこらない、ふしぎなことがおこります。いまも昔も、ちょっと昔も、それは、すこしもかわりません。」
 冒頭のこの文章で、京都市内の山陰線の土手の北側にある露地を舞台にして、不思議なことが起こるお話であることが告げられ、この作品だけではなく、連作短編集全体の作品世界の性格付けがなされます。
 この作品世界には、作者が「でんでんむしの競馬」を出版する前の1968年に翻訳した、イタリアの作家イタロ・カルヴィーノ「マルコヴァルドさんの四季」の影響が色濃く感じられます。
 「マルコヴァルドさんの四季」のような作品世界は、ファンタジーア・レアルタ(イタリア語で空想・現実を意味して両者が混在した世界)と呼ばれていて、この作品はまさにそうした不思議な世界を、アジア太平洋戦争中(文庫版の解説(その記事を参照してください)を書いている長谷川潮によると1938年から1940年の間頃)の京都市内の露地において描いています。 
 露地の住人の女の子チョコと男の子ハゲは、いつも閉ざされている手品師の家(その路地では群を抜いて大きな家です)の庭に、かんぬきがかかていなかったために入り込みます。
 そこでは、光の手品師となのる若い男が見せるファンタージアの世界(春の日差しの中で無数のチョウが飛び回ったり、二人のポケットからとのさまがえるや金魚が出てきたり、男のシルクハットからたまご(当時はめったにお目にかかれない貴重品でした)やチョコレートやキャラメルやドロップスなどが出てきたりします)と、レアルタの世界(知らず知らずのうちに、前にそ手品師の家の住み込みだった若い男が空き巣をするのを手伝わされたために、二人の母親たちは警察に連れていかれます。夕方になってようやく放免された母親たちによって、二人は夕食ぬきで家からほうりだされます)が交錯する世界が、詩的な表現を多用した美しい文章で語られています。
 「散文性の獲得」による長編を目指した「現代児童文学」の運動の中で中心的な役割を果たしていた作者が、このような詩的な短編(限りなく童話の世界に近いでしょう)を書いたのは、非常にロジカルな「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)論者が、実は児童文学者の古田足日いうところの「童話的資質」(関連する記事を参照してください)に非常に恵まれていたことの証拠ではないかと思われます。

でんでんむしの競馬 (1980年) (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社
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