1939年に11歳だった少女が語る両親の会話の記憶です。
そこでは、ユダヤ人の害毒について語られていました。
両親は、二人とも反ユダヤ主義者でしたが、非人道的なやり方には母は反対、父は消極的賛成の立場でした。
父は戦死しましたが、そのおかげで直接ユダヤ人を殺すことには加担しないで済みました。
主人公は、父が三、四十年後に生まれていた場合のことを想像します。
そうすれば、人当たりが良く、家族に愛され、友人や同僚に慕われ、地域の人びとからも愛される人間になったに違いないと。
おそらく、ここに語られた両親は、当時の平均的なドイツ人の夫婦だったのでしょう。
個々には悪い人間ではなかったのに、体制の力に流されてしまい、結果としてナチスドイツの戦争犯罪に間接的に加担してしまった当時のドイツ人たち。
これは決して他人事ではありません。
戦争中の日本人も同様でしたし、現代においては注意していない同じ道をたどる恐れはあります。
何事も大勢に流されずに、善悪を自分で判断していくことの大切さは今も変わりません。
そこでは、ユダヤ人の害毒について語られていました。
両親は、二人とも反ユダヤ主義者でしたが、非人道的なやり方には母は反対、父は消極的賛成の立場でした。
父は戦死しましたが、そのおかげで直接ユダヤ人を殺すことには加担しないで済みました。
主人公は、父が三、四十年後に生まれていた場合のことを想像します。
そうすれば、人当たりが良く、家族に愛され、友人や同僚に慕われ、地域の人びとからも愛される人間になったに違いないと。
おそらく、ここに語られた両親は、当時の平均的なドイツ人の夫婦だったのでしょう。
個々には悪い人間ではなかったのに、体制の力に流されてしまい、結果としてナチスドイツの戦争犯罪に間接的に加担してしまった当時のドイツ人たち。
これは決して他人事ではありません。
戦争中の日本人も同様でしたし、現代においては注意していない同じ道をたどる恐れはあります。
何事も大勢に流されずに、善悪を自分で判断していくことの大切さは今も変わりません。
そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶 | |
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