この作品でも、現実と空想の世界は、ほんの紙一重のところに存在し合っています。
小学校四年生のデベソとキンは、その日もいつものように遅い夕食を待ちくたびれて、腹をすかして線路下の土手に寝転んでいました。
彼らに限らず露地の子どもたちは、そばの山陰線を通る汽車と話をすることができます。
いつもは「連れて行って欲しい」という子どもたちの願いを、汽車はあっさり断って通り過ぎるだけです。
しかし、その日に限って、貨物列車は露地の横に停車して、二人を一番星へ連れて行ってくれます。
終点の星の世界には、露地と違って食べ物屋がたくさんあります。
でも、一文無しの二人にはどうすることもできません。
そのうちに、片腕の男にだまされて、無銭飲食の片棒を担がされて、交番に突き出されてしまいます。
作者は、この作品でも、詩的な表現を多用して美しい星の世界を走る汽車を描いて見せます(宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の影響があるかもしれません)。
その一方で、食べる物にも事欠く貧困、働くことに疲れ切って子どもたちの面倒を見ることができない親たち、戦争の傷跡(片腕の男は、戦争で右腕を失いました)、警察官による朝鮮人差別(キンはおそらく金で、朝鮮人の子どものようです)といった戦時中の現実も描いていて、その対比が鮮やかです。
現在の子どもたちも、彼らと同様に、貧困やネグレクトの問題に再び直面しています。
しかし、当時と違うのは、あの時代にあった子どもたちのコミュニティが、すでに崩壊していることです。
キンは、小柄で非力なために貨車によじのぼれないデベソを、その強い腕で引き上げてやります。
デベソは、自分には優しいのに朝鮮人のキンは差別する警察官の前で何もできない自分を、「なみだの目でキンを見ながら、きゅうに、じぶんが、この世の中でいちばんみじめな子どもになったような気がしました。」と、責めています。
こんな友だちが一人でもいれば、今の子どもたちも、どんなつらい状況でも乗り越えることができるでしょう。
小学校四年生のデベソとキンは、その日もいつものように遅い夕食を待ちくたびれて、腹をすかして線路下の土手に寝転んでいました。
彼らに限らず露地の子どもたちは、そばの山陰線を通る汽車と話をすることができます。
いつもは「連れて行って欲しい」という子どもたちの願いを、汽車はあっさり断って通り過ぎるだけです。
しかし、その日に限って、貨物列車は露地の横に停車して、二人を一番星へ連れて行ってくれます。
終点の星の世界には、露地と違って食べ物屋がたくさんあります。
でも、一文無しの二人にはどうすることもできません。
そのうちに、片腕の男にだまされて、無銭飲食の片棒を担がされて、交番に突き出されてしまいます。
作者は、この作品でも、詩的な表現を多用して美しい星の世界を走る汽車を描いて見せます(宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の影響があるかもしれません)。
その一方で、食べる物にも事欠く貧困、働くことに疲れ切って子どもたちの面倒を見ることができない親たち、戦争の傷跡(片腕の男は、戦争で右腕を失いました)、警察官による朝鮮人差別(キンはおそらく金で、朝鮮人の子どものようです)といった戦時中の現実も描いていて、その対比が鮮やかです。
現在の子どもたちも、彼らと同様に、貧困やネグレクトの問題に再び直面しています。
しかし、当時と違うのは、あの時代にあった子どもたちのコミュニティが、すでに崩壊していることです。
キンは、小柄で非力なために貨車によじのぼれないデベソを、その強い腕で引き上げてやります。
デベソは、自分には優しいのに朝鮮人のキンは差別する警察官の前で何もできない自分を、「なみだの目でキンを見ながら、きゅうに、じぶんが、この世の中でいちばんみじめな子どもになったような気がしました。」と、責めています。
こんな友だちが一人でもいれば、今の子どもたちも、どんなつらい状況でも乗り越えることができるでしょう。
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