現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

西田良子「安藤美紀夫論 エネルギッシュなパイオニア」日本児童文学1982年10月号所収

2017-10-10 18:08:34 | 参考文献
 「郷土文学・作家と作品」の中に掲載された作家論です。
 安藤の郷土と言えば、彼が誕生した1930年から京都大学を卒業する1954年までの24年間をすごした京都、高校教師をやりながら児童文学活動をしていた1972年までの北海道での18年間、そして、1990年に60歳で亡くなるまで日本女子大で教えながら児童文学活動をしていた東京での18年間に区分されます。
 西田は、このうち北海道では「エトランジェ(異邦人)の目」を、そして京都では「土着の目」を、安藤は獲得したと述べています。
 そして、前者の代表作として、「白いりす」、「ポイヤウンべ物語」などをあげ、後者(というよりは安藤の作家活動全体)の代表作として「でんでんむしの競馬」をあげています。
 しかし、これは安藤に限ったことではなく、幼い頃を過ごした郷土において「土着の目」を養うことは、一般的なことでしょう。
 それよりも、西田も指摘しているように、「でんでんむしの競馬」において「土着の目」と共に「子どもの目」を獲得したことが、安藤の児童文学活動の大きな転機になったように思えます。
 また、安藤は、イタリアをはじめとした南欧文学や児童文学に限定されない「児童文化」全体の研究者でもあったわけで、西田がこの論文の最後で述べているように「巨視的な複眼」を備えた稀有な児童文学者だったのです。
 この作家論は1982年(安藤が東京に移って10年目、亡くなる8年前)に書かれたのですが、その後に出版された安藤の作品、「風の十字路(その記事を参照してください)」や「七人めのいとこ」で、安藤の「巨視的な複眼」はより発揮されていったように思われます。
 「土着の目」、「子どもの目」、「エトランジェの目」、「今も見る目」、「未来を見つめる目」などの「巨視的な複眼」は、生まれ故郷の京都でもなく、そこを捨て去るためにできるだけ遠くへ行ったといわれる北海道でもなく、その中間地である東京で完成されていったのは興味深いことです。
 京都と北海道のどちらからも離れて、初めて客観的に自分の全体像を意識できるようになったのでしょう。
 日本女子大に安藤が職を得たのはもしかすると偶然かもしれませんが、そういう場所で安藤が児童文学者として深化していったのは必然だったのでしょう。
 「巨視的な複眼」を備えた稀有な児童文学者である安藤の60歳という現代では若すぎる死は、大げさに言えば「現代児童文学」の早い衰退につながったように思えてなりません。

日本児童文学 2013年 04月号 [雑誌]
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小峰書店
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梨木香歩「渡りの一日」西の魔女が死んだ所収

2017-10-10 18:05:36 | 作品論
 「西の魔女が死んだ」の文庫版だけに収められている短編で、初出は日本児童文学1996年10月号です。
 「西の魔女が死んだ」のラストで、唐突にその存在だけが知らされる、転校先の中学校で仲良しになったという謎の少女ショウコが登場します。
 ぶっきらぼうで風変わりなショウコは、生真面目すぎるために生きづらくなっている「西の魔女が死んだ」の主人公のまいとは好一対で、前の学校で孤独だったまいに友だちができたことを祝福したいと思いました。
 また、ここでは、ストレートな形で作者のジェンダー観も語られています。
 それは、仕事人間タイプのまいの母親でもなく、家庭人間タイプのショウコの母親でもなく、ややご都合主義的にあらわれるダンプカーの女性運転手で好きな人とも結婚する予定の若い女性でしょう。
 そして、初めは「サシバの渡り」を見に行く予定が、「展覧会へ行って画集を買う」に変わり、それも「サッカーのユニフォームをクラスの男の子の兄に届けに行く」に変わっても、最後は前述のダンプカーが展覧会の搬出へ行くところだったので(普通絵画の搬出はダンプカーではやらないと思いますが)、画集も買えて、「サシバの渡り」の絵も見られて、結果オーライだったストーリーが示すように、「本当に好きなことをやれば、初めはうまくいかなくても、最後はきっとうまくいくよ」というポジティブなメッセージを、読者の少女たちにおくっているようです。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)
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