現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

宮川健郎「ふたつの歌物語、『ビルマの竪琴』と『二十四の瞳』 ― 児童文学の空白期」

2017-10-19 12:47:46 | 参考文献
 アジア太平洋戦争が終了してから「現代児童文学」がスタート(一般的には1959年とされています)するまでの期間を、宮川は「空白期」と呼んでいます。
 この時期の代表的な作品群として、無国籍童話(国籍不明の架空な場所を舞台に書かれている主に短編のことで、かといって確固たる架空の世界が確立されてはいない作品に対する蔑称)をあげています。
 実は、現在でも同人誌などでは「無国籍童話」をしばしば見かけます。
 特に、初心者の作品に多いと思われます。
 リアリズムの作品を書こうとすると慣れないうちはいろいろな制約があって書きにくいのですが、作品世界を架空の舞台に設定すると比較的のびのびと書けるようです。
 とはいっても、確固たるファンタジー世界を構築する力量はもとよりないので、いわゆる「無国籍童話」になってしまうのでしょう。
 現在、商品化されているお手軽ファンタジー作品にも、「無国籍童話」と同根なものを感じます。
 宮川は、これらが書かれた理由として、それまでの近代童話が「詩としての童話」であり、新しい現実(民主主義を例にあげています)を描く方法として未成熟だったとしています。
 宮川は「空白期」の例外として、竹山道雄「ビルマの竪琴」と壺井栄「二十四の瞳」をあげています。
 しかし、これらの作品の児童文学史的な位置づけや「現代児童文学」との関係はほとんど述べられていません。
 「ビルマの竪琴」については簡単な作品紹介しか書かれていませんし、「二十四の瞳」についても「赤い鳥童謡」と「唱歌教育」の対立構造を示したのと児童文学研究者の石井直人の言葉を借りて「きまじめなエンターテインメント」と定義したにすぎません(ここで「きまじめなエンターテインメント」の例として、灰谷健次郎「兎の眼」について言及していますが、唐突すぎて論文の構成としてどうなのかと首をひねりました)。
 この二つの作品は、繰り返し映画やテレビドラマにもなり、戦後児童文学の古典として一般には定着していますが、児童文学界での取り扱いは依然として冷遇されたままです。
 その理由は、作者たちが児童文学の世界では部外者(竹山はドイツ文学者で東京大学教授、壺井栄は小説家)であり、特に竹山は思想的に反動的であると児童文学の主流派(今ではすっかり弱くなっていますが革新勢力としての運動体でした)からみなされていたことが、その大きな理由でしょう。
 彼らが児童文学に取り入れた小説の手法は、1980年代に入って児童文学の世界でも一般的になるのですが、それらの関連に関する研究は管見ではあまりなされていないように思われます。
 最後に、宮川は、この時期のその他の例外的な作品として、石井桃子「ノンちゃん雲に乗る」、与田準一「五十一番目のザボン」、国分一太郎「鉄の町の少年」、石森延男「コタンの口笛」をあげていますが、これらと「現代児童文学」との関連も不明なままです。


現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤 宗子「エンターテインメントの変遷」日本児童文学の流れ所収

2017-10-19 12:44:42 | 参考文献
「児童文学における<エンターテインメント>性とは何かという問題意識の上にたって、昭和初年の『少年倶楽部』の時期から現代までを、いくつかのポイントにしぼりながら振り返ります。」という趣旨で行われた講演です。
 初めに「 エンターテインメント」とは何かと言う定義から始まります。
 一般文学で「純文学」と「大衆文学」の区分があるように、かつては「芸術的児童文学」対「大衆的児童文学」の構図があったとしています。
 その一方で、「児童文学」そのものが子どもという大衆そのものを対象としているのだから、すべてが「大衆文学」であるとの考え方もあると紹介しています。 
 最初に昭和初年と断っていますが、実はエンターテインメントの起源は、巌谷小波や押川春浪などの明治期の作品にもあると指摘しています。
 「少年倶楽部」は、大仏次郎、吉川英治、佐藤紅緑、佐々木邦、山中峯太郎、高垣眸、池田宣政などの大人向けの大衆小説の大家たちも作品を書いていて、昭和初期の最盛期には最大60万部も売り上げ、現代で言えば少年ジャンプの600万部にも匹敵する存在だったとしています(大衆的児童文学と言われる「少年倶楽部」も、実際には裕福な家の子どもしか買ってもらえず、大多数の他の子どもたちは彼らから借りたり、お話を聞いたりしていましたので、それに触れた実数では少年ジャンプ以上の影響力があったかもしれません。藤子不二雄Ⓐのマンガや映画で有名な「少年時代」の原作である柏原兵三「長い道」は、都会から疎開してきた主人公が、「少年倶楽部」などのいろいろな物語を、ほとんど本など読んだことのない(その代り主人公とは比べ物にならないくらいたくましい)地元の子どもたちに、長い通学路の間に語ることで、彼らのいじめをなんとか食い止めようとするシーンがすごく印象的です(タイトルもそこからきています))。
 少女小説では、従来の吉屋信子「花物語」に代表されるようなはかなげなイメージの少女だけでなく、「少女倶楽部」などに主として男性作家によって描かれた活動的な少女もいたと指摘しています。
 エンターテインメントの特徴の一つとして、挿絵の効果が指摘されて、伊藤彦造、山口将吉郎、斎藤五百枝、梁川剛一、中原淳一、高畠華宵などが紹介されています。
 この効果は今でも絶大で、この講演では触れられていませんが、現在のエンターテインメントで大きな位置を占めているライトノベルではジャケ買い(お気に入りのイラストレーターの絵がついていれば、取りあえず第一巻は買い、お話も面白けらば二巻目以降も買う)も一般的なようです。
 戦後については、最初に大人の読書文化と同様に、岩波書店に代表されるような教養主体の児童文学と講談社に代表されるような娯楽主体の児童文学といった構図が紹介されて、その例として「岩波少年文庫」(完訳中心で子どもに適さない部分があれば省く)と「世界名作全集」(抄訳中心で子どもに面白いと思われる部分に焦点を当てている)の違いを紹介しています。
 1950年代の「現代児童文学」出発期前後には、「芸術的児童文学」が主流を占めていて、「大衆的児童文学」を下に見るの意識があったことを、国分一太郎「鉄の町の少年」の試み(探偵小説の手法の導入)とそれへの冷ややかな反応などを例にして紹介しています。
 このあたりの感覚は、教養主義の時代(戦前から1960年代まで)に大学に通っていた作家が、まだ児童文学の主流だった1980年代ごろまではあったように思います。
 教養主義が崩壊(その記事を参照してください)した以降は、こうした風潮は薄れて、「芸術的児童文学」を書いていた作家も「大衆的児童文学」(つまりエンターテインメント)を書くようになります。
 代表的な作家としては、那須正幹、後藤竜二、あさのあつこなどがいます。
 エンターテインメントのロングセラーとして、乱歩と「ルパン」があげられています。
 実際、戦前から読まれていて、現在でも読書調査などに顔を出すのですから驚異的です。
 戦後の雑誌文化として、小学館などで出していた学年別誌(「○○の学習」、「○○時代と「○○コース」)に入っていたり、付録でついていたりしたSFジュブナイル(例・筒井康隆『時をかける少女』、眉村卓など)を紹介していましたが、私は講師とほぼ同世代なので非常に懐かしいです(いまでも、映画化されたりするので、ノスタルジアだけでなくエンターテインメントとして非常に優れていたのでしょう)。
 その一方で、週刊少年誌はマンガだけになって、初めはあった小説は姿を消したとしています(実際は、初めから純粋な小説は少なく、マンガ以外は絵物語が主流だったようです)。
 ジュニア小説(佐伯千秋、吉田とし、富島健夫など)というジャンルも、「児童文学」の周辺として紹介されています(前述の学年別誌にも掲載されていて、結構きわどい内容もありました)
 80年代に入って「ズッコケ」「はれぶた」現象を紹介し、特にその中心として那須正幹の仕事(他に「百太郎」シリーズなど)をあげています。
 ここでも、挿絵の変化(70年代ころまでのリアルなものから、マンガ的なものへ)にも触れていますが、私自身もシリアスなデビュー作に内容にそぐわないマンガ的な絵をつけられて辟易した記憶があります。
 また、文庫を中心にした、児童文学の周辺のエンターテインメント(赤川次郎、新井素子、氷室冴子、宗田理など)にも触れています。
 現在(2005年)の状況としては、幼年・中級向けは「乱太郎」シリーズ、「ゾロリ」シリーズなどの遊びの要素を取り入れたものが人気があることや、大人と子ども、芸術と大衆がさらに入り混じっている例として「バッテリー」、「DIVE!!」シリーズ、「西の善き魔女」などをあげています。
 最後に、「読書」行為の意味づけとして、いまだに「芸術的児童文学」対「大衆的児童文学」という意識が読書運動の現場に残っていることや、物語受容の方法が本からゲームや電子機器などに移っていることにも触れていますが、そこに対しては特に明確な意見は発言しなかったようです。
 全体的には、あまり研究する人がいなくて、消費財なので研究もしづらい、エンターテインメントの分野の変遷が、要領よくまとめてあって、非常に参考になりました。
 ただ、どんなエンターテインメントがその時代に流行っていたかはわかるのですが、どんなエンターテインメントがすぐれていたかにはあまり触れていませんでした。
 講師もその立場であると思いますが、あらゆるジャンルに貴賤がないように、「芸術的児童文学」と「大衆的児童文学」にも貴賤はありません。
 ただあらゆるジャンルに、一流と三流は存在します。
 「芸術的児童文学」については、どれが一流かはよく議論されて賞やブックリストなども存在します。
 しかし、「大衆的児童文学」については、未だに「売れている」や「はやっている」などが唯一の評価基準になっているように思えます。
 三十年前に、有名な児童書の編集者だった偕成社の相原法則さんが言っていた、「褒められる本」と「売れる本」という二分化する評価基準が今でも有効なのです。
 「褒められてしかも売れる本」といったような評価基準(実際に作るのは難しいですが)が作られることが、今のエンターテインメント主体の児童文学界には必要だと思えてなりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
「現代児童文学」をふりかえる (日本児童文化史叢書)
クリエーター情報なし
久山社
ブログを読むだけ。毎月の訪問日数に応じてポイント進呈
【コメント募集中】「ファンクラブ」に入ったことはある?
訪問者数に応じてdポイント最大1,000pt当たる!
dポイントが当たる!無料『毎日くじ』

アクセス状況

アクセスアクセス
閲覧 296 PV DOWN!
訪問者 250 IP DOWN!
トータルトータル
閲覧 2,751,121 PV 
訪問者 1,144,337 IP 
ランキングランキング
日別 4,722 DOWN!
週別 4,269 DOWN!
  • RSS2.0