1961年9月に東京新聞に掲載された評論です。
著者は、当時の児童文学作品の文体を、以下のように批判しています。
いぬいとみこ「木かげの家の小人たち」は翻訳調、山中恒「とべたら本こ」はなまのままの俗語の無神経さ、「山が泣いている」や「谷間の底から」は生活記録的文体。
こうした文体のひ弱さの原因として、今までの児童文学には鍛えられた文体というものがなかったからだとして、その原因を今までの児童文学が「童話」であったからだと主張しています。
それまで児童文学に関わる人々は、主に童話的資質のロマン派であったために、当時の児童文学でもっともすぐれた文体であった坪田譲治のリアリズムの文体が引き継がれなかったとしています。
著者の理想とする文体は小説的な散文的な文体なので、「童話」の詩的な文体は完全に否定しています。
しかし、後日、著者自身も認めるように、「童話」もまた児童文学の重要なジャンルであり、ジャンルごとに適切な文体が選択されるのは当然のことでしょう。
また、坪田譲治の文体は、彼が主催した「びわの実学校」の門下の中で散文的な作品も書く人々(今西祐行、寺村輝夫、大石真、前川康男、竹崎有斐、庄野英二、松谷みよ子、関英雄など)によって引き継がれ、「現代児童文学」の中で確固たる地位を占めています。
もしかすると、この当時の著者が理想していたのは、階級闘争とその勝利を現状から完結までをきちんと書き表せるような、もっと冷徹な文体だったのかもしれません。
そういった意味では、彼らの文体はもっと平易で温かみのあるものなので、著者の理想とは違っていたのでしょう。
しかし、書く対象によって文体が変わることは当然のことなので、著者のように統一した文体を求めることには違和感があります。
私自身のささやかな創作体験の中でも、童話的文体、アラン・シリトーやサリンジャーをまねた一人称の翻訳調文体、自分の内部にある少年の孤独を描くのに適していた冷徹な文体(もしかすると、これが著者の理想に一番近いかもしれません)、庄野潤三や柏原兵三の影響を受けた平易だが滋味のある文体(思うようには書けませんでしたが)と、様々な文体を書く対象に応じて使い分けてきました。
著者は、児童文学とおとなの文学がはっきり区別されている当時の状況を「ふしぎなこと」としていますが、その後「現代児童文学」はその差を小さくする方向へ進み、80年代から90年代にかけては、児童文学の大人の文学への越境(これには、作品が大人にも読まれるという意味もありますし、児童文学でデビューした作家が大人の文学の書き手に転向していくという意味もあります)が話題になりました。
これは、著者が当時理想とする方向だったわけで、児童文学が新しい読者(若い世代を中心にした大人の女性)を獲得することに成功しましたが、一方で児童文学のコアな読者である小学校高学年(特に男の子)の読者の児童書離れを引き起こすという副作用もありました。
児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) | |
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