ドルカスは、今回の白馬スネルゴイでの奉仕で賛美に立った(写真左端)。3人の内の1人だったが、喜んで賛美している歌声がホール全体によく響いていた・・・・よくやった
。
私たちの群れの賛美では(思わず)手を上げて歌う。ヒルソング(豪州)とかゴスペル(USA)とかの外国でも、同様に手を上げて歌っている。が個人的には・・・・足かけ40年以上になる私の信仰生活の中では、まったくなかったスタイルだ。どうしてそのように賛美できるのか、不思議に思えていた。
なぜか?数百年も前からの、宗教改革者ルター以来の厳(おごそ)かな賛美歌を歌うのに、感極まったように手を上げるなんて・・・・はしたないというか、感情的であって雰囲気的に考えられないからだ。
しかし賛美とはそんな儀式のようなものだろうか?神は生きていて、一人一人に働いておられる。歌詞をみても賛美とは創造主への告白である。愛の応答であったり、感謝であったり、悔い改め、ほめたたえる言葉だ。心から神を賛美する時、神ご自身が応答され、私たちに触れてくださる体験をする。そんな生きている賛美では、手を上げ、外見などは関係なく涙を流しながら心からの賛美になるのは当然だ。「臨在」と言うが、それがどれほど感動的であるか、体験してみなければわからないだろう。個人的な体験から断言するが、私は決して以前のような賛美に戻れない。今が素晴らしいからだ。 (ケパ)