ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神の言葉は、神の言葉だとわからせられる

2016年01月02日 | 聖書
バプテスマを受けて44年あまり、高校時代の3年ぐらいは教会に関係していたので、私は聖書を半世紀近く読み続けていることになる。
私は生涯で一度も伝道されたことがない。親類縁者はおろか、近郷近在の半径20数キロ以内に教会が一つもない地域に生まれ育ったので、誰一人私に福音を語る者はいなかったのだ。
にもかかわらず神は、12歳の私をとりこにされたのである。それは本好きの少年が帰宅途中の本屋の軒先で、ある日、アンドレ・ジッドの「狭き門」という文庫本を手に取ってパラパラと数枚めくった時に起こったことだった。最初に目に飛び込んできた、次の言葉だった。

「狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その道は廣く、之より入る者おほし。」 マタイ伝7章13節

セマキモンヨリ イレ・・・・私は言葉を反芻しながら、この聖書の言葉に、何教かわからないけれども、多分ヨーロッパだからキリスト教というものだろうが、この言葉は真の神が言っていると感じた。広い門ではなく、狭い門から・・それはどういう道なのだろうかと、考えるようになった。

三年近く経って15歳という、少し行動力が付いて、遠くの教会を覗けるようになって、やはり聖書の「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」(マタイ伝5:3)などの御言葉に出会った。神の言葉に触れると、また同じ追体験をした。このような深く透徹した言葉というものは、人智を超えた神の知恵の力としか思えなかった。別な言葉に置き換えれば、真理、それに近いだろう。

あれから長い、長い月日が経って今や六十代の半ば近くなったのだが、今でも毎日聖書を開くと「ああっ、神の言葉だぁッ」と打たれることが多い。世人の中には聖書を読んでも、全然そうは思われない方も多いようだが、私にはそれが理解できない。聖書を読めば、この神が真の神であることはハッキリわかるはずなのだが。実はこの答えも、すでに聖書にあるのだが・・・参考)ルカ伝16:19-31
ケパ



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