ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

錦織圭

2016年01月21日 | 健康・スポーツ
現在、全豪オープンの真っ盛り。錦織圭の快進撃が続いている。彼は第7シードで、深夜だがNHKで、錦織のほとんどのゲームが観られるのが嬉しい。かつてこのような常時ベスト8の選手が日本に現れたことはなく、本当に嬉しい限りだ。錦織は私よりも4センチも高く、日本人としては高身長の方だが、それでも相手はほとんど10センチ以上の差がある相手。相手のサービスは角度のついた強烈さだし、左右のリーチも広い。にも関わらず錦織は、その速く高く跳ねるストロークと得意のバックハンドで相手を翻弄する。ライジングだろうと何だろうと、彼は脚をぐっと前に踏み込んで打っているので、受ける方としては容易にはコントロールできない生きた球のはずだ。

このコントロールさせない、について最近強く思うところがある。例えばテニスのゲームを楽しむ場合、単に選手が強打してエースを取るのが見ものかもしれないが、しかしそれは仕上げのショットであって、本当の勝負の醍醐味とはその偶数本前のショットの組み立てにある。相手がコントロールできない速さや球種を打ち、相手のコースを読み取り自分のコースを予測させない配給(プレースメントと言う)ができたか、これに尽きる。勝つための定石がこのように定まっているのだから、問題はそれができたかどうか、よくテニスでは真の相手は実は自分自身だと言われるのである。

信仰の世界でもこれに近いことが言える。自分の人生のようでいて、実はどれだけ自分を捨てて、神に委ね捧げ、御心を行なうことができたかどうか、真の相手は自分自身であり、これが勝負である。ただスポーツと異なって、神の力に依り頼むことにポイントがある。己があっては神に用いられない。だから熱心に祈る者勝ちである。 ケパ









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする