数日前の「延命地蔵」のことを書いた。その際、義兄がブログの写真を見て「せっかく地蔵の写真も撮ったのに、どうして載せないのか?」と尋ねてくれた。私が「いえ、地蔵はアタック受けますから」と答えると、理解できない顔をした。それはそうだろうとは思った。日本人の多くはこの手のお顔を拝見するのが大好きで、お雛様から始まって、あらゆる仏像の顔に「心が休まる」だの云々する方が多いのだ。
私は子供の頃から変わり者で、あらゆる像の顔が苦手だった。怖いもの見たさで見るには見るが、いつも「ゾーッ」としていた。極めつきは若い時、もうクリスチャンになって四、五年経っていたが、あるカトリックの祈祷院を訪れた時だった。そこは住宅街にせり出した山裾にあって、信徒の墓所も兼ねた広い敷地にあったのだが、裏手の高台に上って行くと突然、白い大きなマリア像と出会ってしまったのだ。柔和そうな、それでいて少し悲しみにくれたような表情だった。しかしカトリック信徒には大変失礼だが、私は非常に拒否感に迫られて、慌 逃げるように慌てて立ち去った。二度と見たくないとさえ思った。
要するに私は、何であろうと偶像がダメなのである。イスラムほど嫌忌するわけではないが、あの動かぬ顔、いわば死んだ顔に虜にされるような恐怖を感じるのである。そしてネブカデネザル王から北朝鮮の指導者のように、偶像には、自然、拝むようにさせるの役割がある。それゆえクリスチャンであった私が拒否感を持ったのは当然なことであったのだ。
神を作られたものに貶める偶像に、改めて注意して行かなくてはならないし、自分の心に潜むアイドルとかの偶像ついても、全く同様である。
6「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
7あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
8あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(申命記5:6-8)
ケパ
私は子供の頃から変わり者で、あらゆる像の顔が苦手だった。怖いもの見たさで見るには見るが、いつも「ゾーッ」としていた。極めつきは若い時、もうクリスチャンになって四、五年経っていたが、あるカトリックの祈祷院を訪れた時だった。そこは住宅街にせり出した山裾にあって、信徒の墓所も兼ねた広い敷地にあったのだが、裏手の高台に上って行くと突然、白い大きなマリア像と出会ってしまったのだ。柔和そうな、それでいて少し悲しみにくれたような表情だった。しかしカトリック信徒には大変失礼だが、私は非常に拒否感に迫られて、慌 逃げるように慌てて立ち去った。二度と見たくないとさえ思った。
要するに私は、何であろうと偶像がダメなのである。イスラムほど嫌忌するわけではないが、あの動かぬ顔、いわば死んだ顔に虜にされるような恐怖を感じるのである。そしてネブカデネザル王から北朝鮮の指導者のように、偶像には、自然、拝むようにさせるの役割がある。それゆえクリスチャンであった私が拒否感を持ったのは当然なことであったのだ。
神を作られたものに貶める偶像に、改めて注意して行かなくてはならないし、自分の心に潜むアイドルとかの偶像ついても、全く同様である。
6「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
7あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
8あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(申命記5:6-8)
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