二十六聖人の殉教地を巡るルートで、3、4年前にも数度探索し、ほぼ場所を特定しながら、確信までには至らなかった所がある。それはペトロ・バプチスタが俵坂(たわらざか・原意は田原坂)の峠で流した涙の場所である。(写真は彼杵の舟出場所にあるもの)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/9d/10371fb2752b9f242cff02351f7ea021.jpg)
「殉教」では以下のように書いてある。
【殉教への旅は、終わりに近づいてきました。佐賀の山本村から、とても険しい俵坂峠を彼らは黙々と歩き続けました。すれ違う人もなく、彼らのひと月にわたる旅の中でも最も苦しい時だったと思います。しかし、その最も苦しい峠を越えた時、目の前にとても美しい大村湾が広がっていたのです。・・中略・・美しい大村湾を眺めながら、・・中略・・リーダーのペテロ・バプチスタ神父は、みんなから少し離れたところにある岩の上に腰を下ろして、静かに黙想をしていました。・・中略・・しばらく思いめぐらすうちに、ペテロ・バプチスタ神父の目から涙が、とめどめもなく流れてきたのです。】(写真は俵坂から少し下ったあたりで、全く海は見えない)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/9b/e273264dfad775d00b35755495578b58.jpg)
これを読んで想像する景色とは「峠を越えたその時、眼下には大村湾の美しい景色が広がっていた」のだろうと。そこで実際に俵坂峠に行き、旧道の長崎街道を見つけたなら、峠近くの佐賀藩との関所を過ぎて大村領に入り、すぐの峠から少しでも大村側を降りると、きっと見晴らしの良い所、ペドロ・バプチスタのあの場所がある、と。
ところが、である。これは以前にも確認したのだが、長崎街道は谷道を走り、行けども行けどもそのような大村湾が見える所は一向に見当たらないのである。前回峠近くにの住人や、道沿いの八女茶屋に聞き取り調査をしたところ、「この辺りではなくて、たとえ見えたとしてもかなり下の大楠小より、さらに下ったところでしょう」とのことであった。(写真は大楠小の少し下)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/4f/b406c894bc0a26ea73fd38db5b680b8c.jpg)
しかし結局大楠小でも前に山があるため見えず、さらに下って下って、結局山を下りおえ、彼杵(そのぎ)が広がったほぼ平地近くになって、私たちは初めて大村湾を見ることができた。前回と全く同じポイントであった。そこは高速道路の橋脚下の辺りであって、「殉教」に描かれていた景色のイメージとは全く異なっていた。そこは、殉教者達が時津に向かって舟出した彼杵の港に1、あるいは2キロ程度の近さでもあり、ほぼ平地に降りているため、とても眺めの良い「美しい大村湾が広がっていた」とは言い難い。(ようやく大村湾が見えたポイント)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/3e/2cdc2dbf6afb7139b28a0228462c994a.jpg)
今回は観光案内ガイドリーダーの福田さんの尽力で、俵坂から長崎街道を確認しつつ下って、福田さんの目からも、どう見てもこの高速道路の橋脚辺りとしか思えないと語られた。つまり前回、確信は持てなかったこの場所が、専門家の目から見ても妥当であることが確認できた。残念なのはペテロ・バプチスタが腰を下ろしたという岩、これを見つけることができなかった。大きな岩ではなかったのであろう。ただ場所の特定が前回よりはかなり東に沿った、旧道の長崎街道沿い、その近くを流れている彼杵川近辺だろうという修正ができた。
ケパ
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「殉教」では以下のように書いてある。
【殉教への旅は、終わりに近づいてきました。佐賀の山本村から、とても険しい俵坂峠を彼らは黙々と歩き続けました。すれ違う人もなく、彼らのひと月にわたる旅の中でも最も苦しい時だったと思います。しかし、その最も苦しい峠を越えた時、目の前にとても美しい大村湾が広がっていたのです。・・中略・・美しい大村湾を眺めながら、・・中略・・リーダーのペテロ・バプチスタ神父は、みんなから少し離れたところにある岩の上に腰を下ろして、静かに黙想をしていました。・・中略・・しばらく思いめぐらすうちに、ペテロ・バプチスタ神父の目から涙が、とめどめもなく流れてきたのです。】(写真は俵坂から少し下ったあたりで、全く海は見えない)
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これを読んで想像する景色とは「峠を越えたその時、眼下には大村湾の美しい景色が広がっていた」のだろうと。そこで実際に俵坂峠に行き、旧道の長崎街道を見つけたなら、峠近くの佐賀藩との関所を過ぎて大村領に入り、すぐの峠から少しでも大村側を降りると、きっと見晴らしの良い所、ペドロ・バプチスタのあの場所がある、と。
ところが、である。これは以前にも確認したのだが、長崎街道は谷道を走り、行けども行けどもそのような大村湾が見える所は一向に見当たらないのである。前回峠近くにの住人や、道沿いの八女茶屋に聞き取り調査をしたところ、「この辺りではなくて、たとえ見えたとしてもかなり下の大楠小より、さらに下ったところでしょう」とのことであった。(写真は大楠小の少し下)
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しかし結局大楠小でも前に山があるため見えず、さらに下って下って、結局山を下りおえ、彼杵(そのぎ)が広がったほぼ平地近くになって、私たちは初めて大村湾を見ることができた。前回と全く同じポイントであった。そこは高速道路の橋脚下の辺りであって、「殉教」に描かれていた景色のイメージとは全く異なっていた。そこは、殉教者達が時津に向かって舟出した彼杵の港に1、あるいは2キロ程度の近さでもあり、ほぼ平地に降りているため、とても眺めの良い「美しい大村湾が広がっていた」とは言い難い。(ようやく大村湾が見えたポイント)
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今回は観光案内ガイドリーダーの福田さんの尽力で、俵坂から長崎街道を確認しつつ下って、福田さんの目からも、どう見てもこの高速道路の橋脚辺りとしか思えないと語られた。つまり前回、確信は持てなかったこの場所が、専門家の目から見ても妥当であることが確認できた。残念なのはペテロ・バプチスタが腰を下ろしたという岩、これを見つけることができなかった。大きな岩ではなかったのであろう。ただ場所の特定が前回よりはかなり東に沿った、旧道の長崎街道沿い、その近くを流れている彼杵川近辺だろうという修正ができた。
ケパ