主日のメッセージは、靱帯損傷の証しをして、この事にある神の御心、それは体が不自由になる弱さを知り、それでも神を信頼しいっさいを委ね、感謝することだ、と語った。言わば感謝の実践を神が与えてくださり、私は感謝の喜びが湧いてきて・・・語っていたら、不思議、私に何かスイッチが入った。
そう言えばメッセージに立ってから、ずっと立っている。用意されている椅子にも座らず、立てかけてある松葉杖にも触れておらず、ズッとずっと。「あれえ、それなのに今まだ、痛くもないぞ」と気づくと、すぐ「皆さん、こうして神の御心を受け取ったので、(完全にではないにしても)私は癒されています」と宣言した。「オイオイ、そんなことを言って、もしまた痛みで座り込んだりしたら、どうすんだ?」の声も聞かないではなかったが、とにかくそれには耳を貸さずに、言ったのだ。
礼拝後にもう一度、損傷の箇所をチェックしてみた。例の斜めに関節を回してみても、本当に痛くない。歩いてみると、足が軽く、一歩歩くたびにあった痛みが、ほとんど感じられなかった。「素晴らしいです、神様!」全くとはいかないまでも、メッセージする前と、その後それで痛んで座るどころか、逆にほとんど普通に軽やかに歩いている自分が居た。これには当人がホント驚いた。
半日経って、今、最終確認をした。もう松葉杖は返し、用心した事に越したことはないが、確かに普通に、痛くもなく歩けている。これは何なんだろうか? 「私は癒されています」は口先のまやかしでなく、真実だった。
神は生きておられるのです。ハレルヤ❗️ ケパ
そう言えばメッセージに立ってから、ずっと立っている。用意されている椅子にも座らず、立てかけてある松葉杖にも触れておらず、ズッとずっと。「あれえ、それなのに今まだ、痛くもないぞ」と気づくと、すぐ「皆さん、こうして神の御心を受け取ったので、(完全にではないにしても)私は癒されています」と宣言した。「オイオイ、そんなことを言って、もしまた痛みで座り込んだりしたら、どうすんだ?」の声も聞かないではなかったが、とにかくそれには耳を貸さずに、言ったのだ。
礼拝後にもう一度、損傷の箇所をチェックしてみた。例の斜めに関節を回してみても、本当に痛くない。歩いてみると、足が軽く、一歩歩くたびにあった痛みが、ほとんど感じられなかった。「素晴らしいです、神様!」全くとはいかないまでも、メッセージする前と、その後それで痛んで座るどころか、逆にほとんど普通に軽やかに歩いている自分が居た。これには当人がホント驚いた。
半日経って、今、最終確認をした。もう松葉杖は返し、用心した事に越したことはないが、確かに普通に、痛くもなく歩けている。これは何なんだろうか? 「私は癒されています」は口先のまやかしでなく、真実だった。
神は生きておられるのです。ハレルヤ❗️ ケパ