ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

クルミの知恵に、おそれいる

2017年11月24日 | 
クルミ割りリス
友人にリンゴのついでにクルミを贈ると、クルミを割るのに役立つクルミ割りリスの写真をブログに載せてあった。この友の庭に来る本物のエゾリスにクルミをあげたところ、地中に埋めたまでは良いが、忘れてしまって春になると芽を出してビックリしたとのこと。前から話には聞いていたが、「なーるほど」と思ってしまった。(写真 エゾリスー日本の在来種では最大のもの)

何が「なーるほど」なのか? リスでなく、クルミの木の知恵に対してである。元来植物というもの、脳無し、足無し、おまけに体は緑色で紅葉以外に色気無し、そのように気の毒な生き物だと思っていた(これは独断と偏見に基づく)。そこが逆に我々動物にとって安らぐとか、落ち着くとかの好きなのかな?と。

確かに庭の雑草取りをするとして、抜かれる草ぐさが「ヤメテ!」とか、「痛いわ、私を抜いて殺さないで」と、いちいち悲鳴をあげられたとしたら、それは、困る。

いやこれは妄想であって、この本題ではない。本題は脳が無いはずのクルミの木の賢さである。クルミの実は実に硬い。冬のタイヤのスパイク代わりに、一時クルミの殻が使われたほどである。
このクルミの実は人間が食べても極旨なので、まして他の動物が食べたいのは山々なはず。ところがこのクルミの実を御相伴にあずかれる(食べられる)動物は、ごくわずかしかいない。殻の硬さゆえである。つまりクルミはあらかじめ、動物を選んで食料を供給しているのだ。その御指定動物とは一にも二にも本命の🐿リス。次に赤ネズミ、キツツキ、オオアカゲラ、番外でカラス・・・らしい。

なぜクルミの実は、基本リス様御用達なのかと言えば、リスは食べきれないクルミの実を冬に備えて、土に埋めて貯蔵する習性がある。そして友人宅のように、7パーセント前後ほどの割合で、埋めた所を結構忘れる。クルミの木は自分で労せず、リスによって時には百メートルぐらいの離れた地への植栽があちこちで完了する(凄い)わけである。脳が無いはずのクルミの、何という知恵だろうか。おそれ入る。
ちなみにドルカスは、クルミの生産量日本一、32パーセントを誇る長野県東御市に長年住んでいた。(信州浅間山麓のクルミの木)

クルミの木におそれ入る、と言ったが、これは進化の過程でクルミが手に入れた知恵(笑い)ではない。神が植物と動物との見事な調和をあらかじめ織り込んで創造されたのだ。その神の為さる創造の凄さに、改めて感動し、畏(おそ)れいるのだ。
と同時に人間の拙さ、限界を思う。人間は神によって造られた被造物に過ぎないので、天地万物を創造された神を全部知ることが出来ない。当たり前である。
よく、「神がどんな神なのか、よく分かってから信じよう」と言う方がいるが、その方は決して神を悟ることはできないだろうと思う。人間を神より上に置いて、不遜な思い上がりをしているのだ。そうではなく、十字架の死に至るまで私たちを愛してくださったイエス・キリスト、この方、この神を信じよう。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。(第1コリント1:21)



ケパ








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