ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

愛する人と、結婚してはいけない

2018年10月10日 | 示されたこと
職場の人の話です、と面白い話を聞いた。
職場の男性の同僚が次のように公言してはばからないのだそうだ。「美人の女は心がきれい。ブスはダメだ」と。まるで顔の美醜が心の美醜に直結しているような、無茶苦茶な偏見である。「これは一つのセクハラではないか?」と聞いていてムカッとしたものの、しかしよく考えると、自分だって若い頃は似たような過ちをしていたし、過ちそのものに気付くことも、かなり時間が経ってからのことである。人は自分のことが、実は一番わかっていないのだ。だからうわべだけの判断をして、その浅はかさに気づきもせず、悔いることがないのだ、とゆるゆる、かつてのことを思い出した。

私の場合は小学生の頃、両親に二人の出会いを聞いたことがあった。それで真相が分かったのだが、それに痛く幻滅させられたのだ。
まず第一。お見合い結婚→ガクッ【愛のない結婚をしたのだ】 第二にお見合いの席で、母は顔の面を一度も上げなかったので、父曰く、どんな顔をしとるんか、サッパリ分からんかった。顔など実はどうでもよくって、とにかく家を出て結婚しなきゃいけなかったので、結婚することにしたんだと。ヒェ〜【相手はどうでも良かったなんて、じゃあ自分はどうでもよかった結果なんだ。愛のない男女の中で、自分は生まれたなんて、ひどくガッカリだ】

それで私は子供心に「自分はそうはならないぞ。子どもになれそれを語ってやれるほど、必ず愛する女性と結婚するのだ!」と堅く決心してしまった。
それからは、いつも想像たくましく、妻になるべき女性の顔立ちやスタイルまで、脳裏に思い描くようになった。それを中高と積み上げて行ったので、絵姿女房ではないが、「絵に描いて」と言われればすぐ描けるような気がした。その他スタイル、身長や声、目や表情の動きなど。仮にその想像し、完成度を上げたイメージをAとしよう。

20歳でクリスチャンになってからと言うもの、Aにもう一つ条件が加わった。「クリスチャンであること」だ。これは信仰ではなかった。私はぐうたらなので、相手をクリスチャンにする自信がなかったらである。そんなレベルの信仰だった。

さてクリスチャンになって半年後、奇跡が起こった。礼拝が終わった途端、いつものように会堂の後方で女性たちのおしゃべりが一斉に始まるのだが、その喧騒の中、ある声に私は戦慄を覚えた。声だけで分かった・・・「Aがいる」と。後ろを振り返ったその日その時、イメージだけのはずだったAが現れ、目の前に立っていた。仰天した。興奮し、ひどく混乱し、動悸がひどくなって倒れそうになった。

小さな教会で出会った二人はその後、短い期間だったが付き合い、結婚を考えるようになった。が、その途端いろいろ邪魔することがあって、実際に結婚したのはそれから7年後のことだった。6年以上、ほとんどの時間は、先のない別離のままだったのだが。
だから二人の結婚式の日、披露宴で各テーブルにキャンドルサービスをして回る時、私は初めてAの肩に触れ、肩を通して分かるその痩せた体に衝撃を受けた。Aは顔こそこけしのような丸顔だったが、その体にはすでに病の跡があったのだった。

話は変わるが、この前終わった朝ドラ「半分、青い」では、互いに強く惹かれ結ばれながら違う相手と結婚してしまった。結局はそれぞれ両方とも離婚してしまい、元のサヤと言うか、本来一緒になるべき鈴愛と律とのやり直しを暗示する方向でドラマは締めくくられた。
私は鈴愛と律、それぞれの伴侶の方に心から同情する。彼らは冷たく描かれているが、実は被害者である。伴侶の中に、自分が一番の存在ではなく、別な異性、律か鈴愛かがいることに耐えられなかったのだと思う。結婚した相手に、自分以上の大きな存在の異性がいることに気づかない者はいない。これは苦しみを与える所業で、罪作りな欺瞞行為だ。この類で苦しんだ有名な例で、英王室のダイアナ妃がいる。

だから二人は、違う相手と結婚してはならなかったのだ。メガネの掛け違いでは、済まされない。

私の場合、結婚までに7年かかったのだが、実は付き合ったのはほんの数ヶ月だけ。後はほとんど別れており、前途への希望も全くなかった。それなのに私は情けないほど未練タラタラだった。なまじAが祈り通り、クリスチャンになってくれたのがいけなかった。
諦めようと戦いながら、大学を卒業しAが遠い郷里に帰った。社会人になってから数年、他の女性との出会いが何回かあって、いざ具体的に結婚を、と考えてもそれができなかった。どうしてもAを諦められない心があることに気がついた。そんな思いを引きづりながら結婚するのは、何も知らない相手をひどく傷つけると思った。「半分、青い」とは違った。

最終的には、どうしても諦められないので、結婚してはいけない環境、つまりプロテスタントから宗旨替えをして、カトリックの修道院に入る決心をした。生涯を独身として過ごす厳格なイエズス会にである。(写真はその際の司祭と教会)

ところが神さまは、カトリックはマズイとストップされた。どういうストップかというと、Aの心を翻意させ、私を思い出させ、私と結婚したいと思い直すよう変えられたのだ。6年以上放っておいて、あと二ヶ月でイエズス会への誓願を相手が出そうとしたタイミングでである。もちろんAはそんなことは何も知らなかったはずだ。
突然Aから結婚の打診が元の牧師を通して電話で来た時のことを鮮明に思い出す。まさに体が空に浮かんだような異常な喜びが湧いた。小学生の時からの夢であった、最高に幸せな家庭作りが始まる喜びである。

それから自分の単なる理想で描いた、なんて愚かな妄想(だから、職場の同僚男性の浅はかさを、私は笑えない)・・・・に気づかされるために十年と少し要し、はっきりと愚かしさを骨身に知らされ、心から悔い改めるには、さらに十年の年月を要した。
「妻を心から愛している」と思い続けていたが実はそれは錯覚であって、ナルシスのように、自分自身の想像上のA、架空の想像上の産物以外の何ものでもなかった。懸命に私は、生きた本当の相手を愛そうとしたが、自分のAに気づき、それを修正しようとしたわけではなかった。これはなんと言うのだろうか。夫がありのままの自分を受け入れてくれないで、何か執拗に違うイメージ(A)を想い続けている・・・「半分、青い」の律と鈴愛の失敗そのものではないか!

やがて時が来て、自分の罪深さを知って悔い改めても、すでに精神を重く病んだ妻との、やり直しの時間は残されていなかった。癌になっていたのだ。それだけでなく、それまでにあまりにも深く、修正ができないほど互いを傷つけあってしまっていたのかも知れない。

ここで以前ブログに書いたように、ドルカスへの言葉。あなたは十一番目の大切がある。そもそも人間的な愛など、御心を知る妨害にさえなるのである。だだただ、神が導いてくださる相手だけが最善で最高なのだ。ドルカスのことは私はほとんど知らなかったし、そのため人間的な思いが入る余地が全くなかったので、それが良かった。その上、私が何らかの行動を一切したわけではなかった。神に一切を委ね、祈って、確認を求めていただけだ。

そして私は今、人間の目では絶対選ばなかったはずの、最高の伴侶を得て極上の祝福を感じている。改めて人間の目で選ぶことは、肉の目で選ぶことであり、それは刈り取りになること、それを二つの結婚から身に染みて知らされている。
私から言えば、恋愛結婚では、まず幸せになれない。極論であるが、恋愛とは妄想である。自分の肉なる願望を押し通して一緒になってみれば、本当の姿にしっかりと幻滅し、挫折を得るためにするようなものだ。しかし人は罪深く、自分の妄想であったことに気づかず、それをすべて相手のせいにする所が立ち直れないというか、さらに不幸な結果を招いてしまう。

もちろんこれは、法則でも何でもなく、人それぞれなのだろう。だだ誰に対しても言える法則はある。幸せになりたいならば、人よりも、自分よりも神を愛し、神を信じることだと。神はご自分を愛する者を愛され、最善の祝福をされるからだ。それは間違いない!

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
【ヨハネの手紙 第一 4章16節】


ケパ





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