ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

信仰とはどういう事か?

2018年10月17日 | 信仰
最近、信仰について考えさせられている。

「信じる」とはどういう事なのだろうか? いろんな信じるがあって、多様性を認めるべきなのか?

1例として、迫害時においての「転び」がある。人によっては「命をかけてまで、そのような形にこだわる必要はない。信仰はあくまで心の中のものだから」とする。確かに、そういう一面はあるかも知れない。

しかし聖書では次のように言っている。昇天する直前のキリストが最後に言った言葉だ。「あなた方は『わたしの証人となります』」と。すると信者が迫害時に自分の命を惜しんで、キリストの名を否んで刻印を受けたりすれば、証人としての使命を果たせていないことになる。
しかも聖書では、(やむなく、であっても)獣の刻印を受けた者は、容赦なくゲヘナの火にに投げ入れられると明確に記されている。刻印を受けても、後で悔い改めたら赦される、とは、これはならないようだ。

結局、信仰とは自分の肉の命を第一に考え、御名を否定し背いて血肉の命を保つか、それともキリストのために一つしかない己の命を差し出すか、そこに終着点があると思う。普段は皆、同じように共にいても、くっきりとそれをあぶり出すのが【試練】なのだ。神はご自分の独り子を惜しまれず、十字架にお架けになって愛をお示しになった。それほど真剣なのに、どうして私たちが自分を守っておられようか。
ではどうして命をも差し出せるのだろうか? それは多く赦してくださったキリストを、心から愛するからである。

イエス様がパリサイ人の食卓に招待された時、金持ちのパリサイ人に対比されたのは罪の女であった。そして「赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」と愛の真髄を語られたのだった。

人は2種類に分けられる。自分を罪ある者として見ているのか、正しい者として見ているのか、である。自分を義とする者は、たとえ神を信じたとしても、それは永遠のいのちを不法に得ようとしし、自分のためであり、殉教などできはしない。

それゆえに主のとし年、恵の年が終わりに近づいた今多くの刈り取りのために、多くの試練が押し寄せてくるのは当然である。イエス様の名を否まぬよう、刻印を受けることないように主に祈り、信じましょう。
自分の醜さ、弱さを知る者が、高木仙右衛門の如く、祈って神の助けを求めたい。


ケパ



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