私たち人間は、如何にして神の声を聞くのであろうか?もちろん神を信じ、神は語られる、と言う信仰があることが前提である。それでも「私は、神の声を聞いたことがない」という方が結構おられる。私自身も、かなり焦燥感を持って待ち望んでいた時期がある。その理由は何だろうか? ヒントになるのは、旧約中の最後にして最大の士師となる少年サムエルが、初めて神とコンタクトが取る時の様子である。
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。(1サム3:10)
先ず、サムエルは神が自分に語られるということを知らなかった。それで、大祭司エリに、呼びかけられているのは神であることを教えられ、疑わずに神の語りかけに応答した。
次に「しもべは聞きます」という関係性が重要である。私たちは神の被造物である。しかしただの被造物ではない。神がその独り子、神ご自身に等しい存在をかけてまで愛してくださった被造物である。それゆえ人は神の愛に答え、自分の意思より神の御心を行う、神への愛を持つ。これがクリスチャンが「主よ」と言い、自らのことを「しもべ」とも言う所以(ゆえん)だ。
クリスチャンの中には、神を主とせず自分が主となっている人が多い。神が語られることを知らないばかりか、そのような事を言いでもしたら、異端視するのである。「しもべ」どころか、人生の主人は自分で、神は「困った時の神頼み」扱いである。私は常に悔い改め、サムエルのように「しもべは聞きます」と聞き従いを持って御前に出たい。主から聞かなければ、しもべは何も出来ないから。 ケパ
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。(1サム3:10)
先ず、サムエルは神が自分に語られるということを知らなかった。それで、大祭司エリに、呼びかけられているのは神であることを教えられ、疑わずに神の語りかけに応答した。
次に「しもべは聞きます」という関係性が重要である。私たちは神の被造物である。しかしただの被造物ではない。神がその独り子、神ご自身に等しい存在をかけてまで愛してくださった被造物である。それゆえ人は神の愛に答え、自分の意思より神の御心を行う、神への愛を持つ。これがクリスチャンが「主よ」と言い、自らのことを「しもべ」とも言う所以(ゆえん)だ。
クリスチャンの中には、神を主とせず自分が主となっている人が多い。神が語られることを知らないばかりか、そのような事を言いでもしたら、異端視するのである。「しもべ」どころか、人生の主人は自分で、神は「困った時の神頼み」扱いである。私は常に悔い改め、サムエルのように「しもべは聞きます」と聞き従いを持って御前に出たい。主から聞かなければ、しもべは何も出来ないから。 ケパ