定刻に2回目の文章作成ゼミははじまった。
まず、横内先生に添削してもらった自分のステートメントを、みんな(参加者は4人)に配り、音読する。
朱筆の入っているところでいったん止まり、先生が説明の足りない部分や気になる点を質問してくる。
その質問は鋭く、たいていはこちらの考えが足りなかったり、あいまいなことばに対するものだ。
文章を読みすすめながら、先生との問答をくり返すことで、ステートメントの精度を上げていく。
たとえば、わたしは作品のテーマのなかにこんな文章を書いた。
「まちがった考えの人間によって、自然は破壊され、環境も悪くなっています」
すると先生は「ここでいう自然とはなにか」「環境というのは自然もふくめたものなのか」「そこに人間(社会)はどのように入ってくるのか」などと、矢継ぎ早やに質問をあびせてくる。
そのやりとりによって、自分の本心とはちがうのに杓子定規にものを考えていたり、自分で勝手に思い込んでいることに何度も気づかされる。
指摘されたことはその場で答えるのではなく、次回の締め切りまでにもう一度よく考えて作文し、先生に送ることになっている。
朱筆とゼミ当日の指摘によって真っ赤になったステートメントを、きょうは朝から修正していた。
修正には決まりがあって、あたらしく加筆した文章は緑色で書く。(元の文章は黒色)
また元の文章を消すときは完全に消去するのではなく、文章をのこしたまま取り消し線(横線)を引いて消す。
こうすることで元の文章がどのように修正されたのかがよくわかる。
そのようにしてどんどん修正していくと、元の文章にはほとんど取り消し線が入り、文章が緑色になってしまった。
まえにも書いたように、このステートメントというのは作家の創作理念であるから、一つひとつの作品のステートメント(コンセプト)の基礎となるものだ。
自分の履歴(おいたち)を振り返り、これまでなにを見てなにを感じて生きてきたのかを掘り起こす。
その中から写真との接点やテーマを見つけていく。
「なぜ、その写真を撮るのか」ということを意識化する作業だと言い換えてもいい。
作家がしっかりとしたステートメントをもつというのは、写真の世界に限ったことではなく、むしろ現代アートの世界ではあたりまえのことになっている。
べつの言い方をすれば、写真がアートとして認識されるようになったのは、こうしたステートメントを発信する写真家が出てきたからだ。
アートというのは、制作段階では非常にプライベートな行為で、作家は自身の心の中へ深く潜っていく。
そしてふたたび心の中から上昇し、外の世界へ向かうときに発表すべき作品が生まれる。
だとすれば、ステートメントというのは作家の心と世界の人々とをつなぐ、なにか翻訳機のようなものだと言えないだろうか。
まず、横内先生に添削してもらった自分のステートメントを、みんな(参加者は4人)に配り、音読する。
朱筆の入っているところでいったん止まり、先生が説明の足りない部分や気になる点を質問してくる。
その質問は鋭く、たいていはこちらの考えが足りなかったり、あいまいなことばに対するものだ。
文章を読みすすめながら、先生との問答をくり返すことで、ステートメントの精度を上げていく。
たとえば、わたしは作品のテーマのなかにこんな文章を書いた。
「まちがった考えの人間によって、自然は破壊され、環境も悪くなっています」
すると先生は「ここでいう自然とはなにか」「環境というのは自然もふくめたものなのか」「そこに人間(社会)はどのように入ってくるのか」などと、矢継ぎ早やに質問をあびせてくる。
そのやりとりによって、自分の本心とはちがうのに杓子定規にものを考えていたり、自分で勝手に思い込んでいることに何度も気づかされる。
指摘されたことはその場で答えるのではなく、次回の締め切りまでにもう一度よく考えて作文し、先生に送ることになっている。
朱筆とゼミ当日の指摘によって真っ赤になったステートメントを、きょうは朝から修正していた。
修正には決まりがあって、あたらしく加筆した文章は緑色で書く。(元の文章は黒色)
また元の文章を消すときは完全に消去するのではなく、文章をのこしたまま取り消し線(横線)を引いて消す。
こうすることで元の文章がどのように修正されたのかがよくわかる。
そのようにしてどんどん修正していくと、元の文章にはほとんど取り消し線が入り、文章が緑色になってしまった。
まえにも書いたように、このステートメントというのは作家の創作理念であるから、一つひとつの作品のステートメント(コンセプト)の基礎となるものだ。
自分の履歴(おいたち)を振り返り、これまでなにを見てなにを感じて生きてきたのかを掘り起こす。
その中から写真との接点やテーマを見つけていく。
「なぜ、その写真を撮るのか」ということを意識化する作業だと言い換えてもいい。
作家がしっかりとしたステートメントをもつというのは、写真の世界に限ったことではなく、むしろ現代アートの世界ではあたりまえのことになっている。
べつの言い方をすれば、写真がアートとして認識されるようになったのは、こうしたステートメントを発信する写真家が出てきたからだ。
アートというのは、制作段階では非常にプライベートな行為で、作家は自身の心の中へ深く潜っていく。
そしてふたたび心の中から上昇し、外の世界へ向かうときに発表すべき作品が生まれる。
だとすれば、ステートメントというのは作家の心と世界の人々とをつなぐ、なにか翻訳機のようなものだと言えないだろうか。