Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

尖った変態カメラ dp2 クアトロ

2015年07月18日 | Camera


このたび、ライカM8を売ってあたらしく買ったカメラというのは「シグマ dp2 クアトロ」だ。
はじめて見た人はきっとヘンな形と感じるであろう。わたしもそう思う。
このdpクアトロシリーズはdp0~3まで4機種あって、それぞれ焦点距離のちがうレンズが付いている。
dp0は14ミリ(35ミリ換算で21ミリ相当)、dp1は19ミリ(28ミリ相当)、dp2は30ミリ(45ミリ相当)、dp3は50ミリ(75ミリ相当)。
14~50ミリくらいならズームレンズにすれば1台で済むのに、わざわざ単焦点にして4機種もつくるなんて、これだけでもかなりマニアックなカメラだとわかるだろう。
シグマの山木社長自身も認めるとおり、dpシリーズは変態カメラなのである。

もともとレンズメーカーであったシグマは、レンズづくりに強いこだわりを持っている。最高の性能を引き出すにはズームよりも単焦点の方が有利なので、dpシリーズは単焦点レンズを採用しているわけだ。
レンズだけではない。イメージセンサーもほかのメーカーにはない、独自のフォビオンセンサーという特殊なものを使っている。
ベイヤー式のセンサーの撮像素子が単層なのに対し、このフォビオン式は三層の撮像素子が使われている。それぞれの層で別々にR・G・Bの光を受け止めるので、演算によって補完する必要がない。色情報をすべて受け止めるのだから、高精細な画像になるのは想像できるだろう。
最高の画質を得るためにレンズもセンサーも最高のものをつくって、組み合わせた結果がこのdpシリーズなのである。変態でしょ。

そういうカメラなので、画質以外は少々ガマンしなければならないところがある。
まずピントが遅いので動くものはほとんど撮れない。置きピンなら撮れるかもしれないが、出会い頭のスナップ撮影には不向きだ。
また撮影したあとの書き込みもけっこう遅い。完了までに5~10秒近くかかる。プレビュー画像が出ても2秒で消えるので、拡大してピントをたしかめるにはもう少し待たねばならない。
それから手ぶれ補正機能は付いていない。両手でボディをしっかりと持ち、そっとシャッターを切らないとすぐにブレてしまう。片手で撮るなんてもってのほかだ。高画質を得るためには、できれば三脚を使いたい。
さらに、タッチパネルやチルト式モニタなど、撮影者を甘やかす機能も付いていない。
当然ながら、アートフィルターとかシーンセレクトとか、動画機能も付いていない。いまやM型ライカでさえ動画が撮れるというのに、dpシリーズは静止画像しか撮れないのだ。
要するに写真表現に関係のない機能はいっさい付いていないカメラである。尖っている。

 ISO100、絞りf6.3オート

 中央部ピクセル等倍

どれほど高画質なのかは画像を見れば一目瞭然だと思う。上の画像はJPEG撮って出しで、なにも触っていない。クアトロシリーズになって、露出もWBも安定して使えるようになった印象だ。


dpシリーズにくらべたら、フジもパナもオリもソニも、どれも似たり寄ったりだね。

作品をつくりつづける理由

2015年07月16日 | Photography
きのうの写真学校の授業で、写真家の浅田政志さんはこういった。

「作品をつくって、写真集を出したり、写真展をすると、その人にしか味わえないある種の快感がある」
わざわざ遠いところから見にきてくれたり、時には自分の写真を見て涙をながしてくれる人もいる。そういう人との出会いが作品をつくりつづける気持ちを高め、原動力になるのだという。
素直でとてもわかりやすいお話だと思う。

作品づくりをする人間は、つくった作品を見たり聞いてもらった相手の反応がとても気になるものだ。
「この写真、いいね」といわれたら、もうそれだけでこれまでの苦労は報われる。作品が売れるとか、儲かるということはもっともっとあとの話で、まずは評価されたいのだ。
これはいわゆる「芸術」作品にかぎらず、すべてのモノづくりに当てはまることだろう。料理人も自分の料理を「おいしい」といってほしいし、美容師だって「この髪型かっこいい」といわれたい。町工場のおやじだって「あんたとこのネジが一番」っていわれたら嬉しいに決まってる。

詰まるところ、表現するということは、こういうことなのだと思う。
自分が一番好きなことをして、だれかに評価される。これは生きる目標にもつながるね。
じっさい、作家さんってみんなバイタリティがあふれていて、生き生きとしている人が多い気がする。
きのうの内倉真一郎さんなんて、本当にすごかったなあ。



ただし自分の表現したいテーマがはっきりしていないと、制作のための制作になってしまって、結局なんのためにやってるのかわからなくなってしまう。
相手の反応も大事だけれど、一番たいせつなのは自分のこころの声だ。叫ばずにはいられない「なにか」があって、はじめて表現になるということ。
ここが作家か、ただのカメラマンかの分かれ目なのです。あ~

過去の作品にふれる

2015年07月15日 | Class
きょうは日本写真映像専門学校の授業にゲストとして呼ばれている。
わたしのほかに内倉真一郎さん、ヨシダミナコさんもいっしょだ。歳ははなれているが、彼らとわたしはこの学校の同級生である。
卒業して13年ほど経つが、いまだに自分の作品を撮りつづけている3人を呼んで、作品を見たり、作品制作の秘話などを聞き出すというのが、きょうの授業のねらいらしい。
これを企画したのは写真学科2年生の担任F先生であるが、じつは彼もわたしたちの同級生で、きょうのために作品の準備などいろいろと動きまわってくれた。ありがとう、F先生。



さて、授業はホスト役のH校長先生の話からはじまり、場がなごんだところで3人のゲストの自己紹介。
そしてスライドを使っての過去の作品の紹介。さらにその作品解説と質疑応答。
おどろいたのは内倉さんの話ぶりだ。学生時代、彼はどちらかというと口べたで、人まえでそれほどうまくしゃべっていた記憶はない。でも、きょうの彼は「ノリにノッている新進気鋭の若手写真家」という感じで、生徒さんたちの注目をあつめていた。すごいね、ウッチー。
あっという間に1時間目がおわり2時間目に突入。途中で休憩をはさみ、今度は最新作の飾ってある教室へ移動する。

そこでも作品の解説と質疑応答をしていたら、なんとあの浅田政志さんが教室に潜入していた。彼は午前中、1年生の授業の講師で来ていたようだ。なんという偶然か。
彼の話ぶりはとても穏やかで、内容も興味深いことばかり。なにより自分のことばでしゃべっているので非常にわかりやすかった。さすがは第一線で活躍している写真家さんである。
木村伊兵衛賞をとった直後はなかなか仕事がなくて、婚礼写真のアルバイトなども掛け持ちでやっていたという。(浅田さんに撮ってもらった婚礼写真ってプレミアムだね)



で、わたしの話はあいかわらずまとまりのない、グダグダな内容になってしまって、生徒さんには有意義な話ではなかっただろうな。すみません。まあ自分なりに過去作品をふりかえることができたのは収穫でした。
3時間の授業のあと、みんなで梅田へくり出して反省慰労会というかプチ同窓会。F先生のことばが耳の奥に残る。

ライカ沼からの脱出

2015年07月13日 | Camera


長いあいだ使ったライカM8を手放すことにした。M8よりもよく写るカメラを見つけてしまったのである。それを買うために売りに出されるというわけだ。
ついでにM8の撮影に必要なUV/IRカットフィルターやIRフィルターも全部売ってしまったので、すっきり。もうこの先、二度と赤外線写真を撮ることはないだろう。

手放したM8はいまからちょうど5年まえにヤフオクで手に入れたものだ。中古品でもおそろしく高価で、国産の高級デジカメが新品で買えるほどであった。すでに何台もの銀塩ライカとそのレンズに手を染め、いわゆる「ライカ沼」という底なしとも思える沼に首まで浸かっていたころだ。
ライカの魅力はきれいな写真が撮れる小型カメラということに尽きるのであるが、そのシンプルなデザインと工芸品のような仕上がりのおかげで、写真を撮る道具という本来の目的を超えて、所有するよろこびをもたらす物という付加価値がついてしまった。

ライカ好きのほとんどの人(もちろんわたしもその中の一人)がその「よろこび」を感じ、フィルムも入っていないライカの空シャッターを切って恍惚とするのである。だが、あの静かな布幕シャッターが世界の光を見ないまま、暗い防湿庫で眠っているとすれば、じつに残念なことではある。
ライカをこの世に誕生させたオスカー・バルナック博士がそういう状況を見たら、きっとこう嘆くであろう。「おお、私のつくったカメラで写真を撮ってくれ!」



じつはよく写る数本のレンズとM2だけは、まだ処分せずに置いてある。M型やバルナック型、それにR型も合わせていろいろ使ってきたけど、さいごに残ったライカがこのM2だ。コイツはわたしと同じ製造年(つまり同じ歳)なので、わたしが死んだときにいっしょにガンジス川に葬ってもらおうと思っている。
ということで、ライカ沼からはなんとか脱出できたというお話でした。

それはさておき、M8を売ってまで手に入れようとしているカメラとは何か。その報告は近日中に。

生きることの意味を問う

2015年07月06日 | Life
最近観た映画のご紹介。



一つめは「愛を積むひと」。監督・脚本は朝原雄三。原作は「石を積むひと」(エドワード ムーニー Jr.著)。
東京で町工場を営んでいた夫婦・篤史と良子が経営不振で工場をたたみ、北海道へ移り住む。あたらしく建てたログハウスのまわりに石塀をつくっていく物語であるが、完成を見ずに妻は亡くなってしまう。夫は石塀づくりをつづけながら、いろいろな人間関係が展開していく。

篤史と良子はちょうどわたしとおなじ世代の夫婦なので、自然に感情移入してしまう。美瑛のうつくしい風景のなかで、いのちといのちが関わり、ぶつかり、昇華されていく。お話自体はとても地味だが、だからこそ感じることのできるリアリティがこの映画にはある。
映画館内はほとんど年寄りばかりだったが、若い人たちにこそ観てほしい作品。



二つめは「あん」。監督・脚本は河瀬直美。原作はドリアン助川。
下町でどら焼き屋を営む千太郎のもとへ徳江という老女がやってくる。徳江はあんこづくりの名人で、彼女のつくったあんこのおかげで店は大繁盛。だが千太郎の過去や徳江の病気のことがわかってくると、物語は急展開する。

前半のあんこづくりのシーンは本当にうつくしい。まるであずきが生きもののように、大鍋でふつふつと茹であがり、だれもが生唾をのみこむ映像だ。徳江が「がんばりなさいよ」とあずきに声をかけるところがいい。
後半は世の中の不条理がわかりやすい形で描かれている。自分がどちら側に立つかによって、お話の見え方は180度かわってくる。その意味ではこわい映画である。

「愛を積むひと」も「あん」も今のこの生きにくい時代をよく映している。生きにくい時代だからこそ、いかに生きることが幸せにつながるのかを両作品は問うている。映画を観て泣いている場合ではない。