(原題:Mina Tannenbaum)93年作品。果たして、女性同士の真の友情というものは存在するか。1958年、パリの同じ病院で生まれたミナ(ロマーヌ・ボーランジェ)と、エテル(エルザ・ジルベルステイン)の二人は10歳の時からの友人同士。映画は91年までの二人の軌跡を追う。監督はこれがデビュー作の若手女流マルティーヌ・デュゴウソン。
端的に言ってしまうと“女同士の友情なんてあるわけがない”というのが作者のスタンスだ。二人の出会いは、エテルがミナの描いたゲーンズボロの模写に感動したのがきっかけだ。ミナはそれから画家としての道を歩むが、エテルはジャーナリストを目指すもののなかなかチャンスがない。しかしあることをきっかけに後年二人の立場が逆転し始める。エテルは幼い頃から才能を持っているミナに羨望の目を向けつつ、いつかは彼女を踏み台にして自分も脚光を浴びたいと思っていたわけだ(事実そうなるのだが)。一方ミナは何をやらせてもトロいエテルの世話を焼きつつ、自分が上という優越感を感じることがたまらなく嬉しくてエテルと付き合っていたのだ。二人とも好きな男ができるが、二人とも相手の好きな男のことなんか聞きたくない。自分の好きな男のことだけを相手に聞いてほしい。エゴの発散が“女性同士の友情”だと言わんばかりだ。
しかし、エゴが発散できる相手を“親友”と勘違いしたミナは、結局エテルがいなくては何もできなくなってしまう。他人の真意を見抜くことができない彼女は、次第に孤立していく。興味深いことに、ここで作者は“大人”として成長するエテルではなくミナの方に感情移入していくのだ。たぶん作者の精神的バックグラウンドと通じるものがあるからだろう。
“そんなことを認めるなら死んだ方がマシだ”というカフカの言葉をラストに引用している通り、純粋で妥協を許さないミナを孤高の芸術家か何かと捉えていて、周りの者を俗物扱い。あんた達と私は違う。ブタになって生きるより死ぬ方を選ぶ。確かにこの監督、ユニークな演出が光っている。主演二人が仲良く会話していると、それぞれの分身がスッと身体を抜け出し、つかみ合いのケンカを始めたり、10歳と30歳のミナが同一画面に登場したり、インテリアの色や配置をコマ撮りして月日の流れを表現したり。でも時としてその手法が一人よがりになってドラマが停滞する場合も少なくない。“わかる人だけわかればいい”という姿勢は、映画の中のミナそのものだ。
でも青くさい新人監督がやってもサマにならないのである。 作者の気負いが表に出すぎるこの映画、では観る価値ないか、というと実は全然違うのだ。それは主演のロマーヌ・ボーランジェだ。依怙地になって孤独地獄に落ち込んでいくヒロインは、彼女自身の生き方の当然の帰着であり、共感できない人物像なのは頭ではわかっている。でも、ボーランジェのひたむきな表情、世の中の悲しみを一人で背負っているような眼差しに、観客すべてがグッときてしまう。自分の信じていたものに次々と裏切られるその切なさが、ヒロインを通じてこちらの心にビンビン伝わってくる。まったく本作でのボーランジェは素晴らしい(共演のジルベルスタインとは格が違う)。
それにしても、主人公二人の家庭がユダヤ系という設定は興味深い。必要以上に強調される家庭での“民族教育”を目の当たりにしては、ミナやエテルならずとも反発したくもなるだろう。そういえばスピルバーグもこういう家庭で育ったとか・・・・。
端的に言ってしまうと“女同士の友情なんてあるわけがない”というのが作者のスタンスだ。二人の出会いは、エテルがミナの描いたゲーンズボロの模写に感動したのがきっかけだ。ミナはそれから画家としての道を歩むが、エテルはジャーナリストを目指すもののなかなかチャンスがない。しかしあることをきっかけに後年二人の立場が逆転し始める。エテルは幼い頃から才能を持っているミナに羨望の目を向けつつ、いつかは彼女を踏み台にして自分も脚光を浴びたいと思っていたわけだ(事実そうなるのだが)。一方ミナは何をやらせてもトロいエテルの世話を焼きつつ、自分が上という優越感を感じることがたまらなく嬉しくてエテルと付き合っていたのだ。二人とも好きな男ができるが、二人とも相手の好きな男のことなんか聞きたくない。自分の好きな男のことだけを相手に聞いてほしい。エゴの発散が“女性同士の友情”だと言わんばかりだ。
しかし、エゴが発散できる相手を“親友”と勘違いしたミナは、結局エテルがいなくては何もできなくなってしまう。他人の真意を見抜くことができない彼女は、次第に孤立していく。興味深いことに、ここで作者は“大人”として成長するエテルではなくミナの方に感情移入していくのだ。たぶん作者の精神的バックグラウンドと通じるものがあるからだろう。
“そんなことを認めるなら死んだ方がマシだ”というカフカの言葉をラストに引用している通り、純粋で妥協を許さないミナを孤高の芸術家か何かと捉えていて、周りの者を俗物扱い。あんた達と私は違う。ブタになって生きるより死ぬ方を選ぶ。確かにこの監督、ユニークな演出が光っている。主演二人が仲良く会話していると、それぞれの分身がスッと身体を抜け出し、つかみ合いのケンカを始めたり、10歳と30歳のミナが同一画面に登場したり、インテリアの色や配置をコマ撮りして月日の流れを表現したり。でも時としてその手法が一人よがりになってドラマが停滞する場合も少なくない。“わかる人だけわかればいい”という姿勢は、映画の中のミナそのものだ。
でも青くさい新人監督がやってもサマにならないのである。 作者の気負いが表に出すぎるこの映画、では観る価値ないか、というと実は全然違うのだ。それは主演のロマーヌ・ボーランジェだ。依怙地になって孤独地獄に落ち込んでいくヒロインは、彼女自身の生き方の当然の帰着であり、共感できない人物像なのは頭ではわかっている。でも、ボーランジェのひたむきな表情、世の中の悲しみを一人で背負っているような眼差しに、観客すべてがグッときてしまう。自分の信じていたものに次々と裏切られるその切なさが、ヒロインを通じてこちらの心にビンビン伝わってくる。まったく本作でのボーランジェは素晴らしい(共演のジルベルスタインとは格が違う)。
それにしても、主人公二人の家庭がユダヤ系という設定は興味深い。必要以上に強調される家庭での“民族教育”を目の当たりにしては、ミナやエテルならずとも反発したくもなるだろう。そういえばスピルバーグもこういう家庭で育ったとか・・・・。
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