元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ヘイトフル・エイト」

2016-03-13 06:28:56 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE HATEFUL EIGHT )画面に隙間風が吹きまくっていたのは、舞台が雪山だからではない(笑)。作劇や役者のパフォーマンスが弛緩しており、全体的に密度が低いスカスカの状態であるからだ。結局、クエンティン・タランティーノ監督はデビュー作「レザボアドッグス」(92年)を超える仕事は出来ないことを再確認した。

 南北戦争が終わってから数年が経った冬、ワイオミング州の山中で元北軍の将校で今は賞金稼ぎのマーキス・ウォーレンは、指名手配犯3人の凍り付いた死体をレッドロックの町に運ぶ途中、豪雪のため立ち往生していた。そこに1台の駅馬車が通りかかりウォーレンは乗り込むが、先客としてそこにいたのは同じく賞金稼ぎのジョン・ルースと、お尋ね者の女デイジーだった。ルースは当局側にデイジーを引き渡し、絞首刑になるのを見るためにレッドロックに向かっていたのだった。



 途中、新任保安官だと名乗るクリス・マニックスも同行することになり、風雪を凌ぐためにミニーの店にたどり着く。ところがミニーは不在で、留守番をしているという見知らぬメキシコ人が出迎える。店には3人の先客が吹雪で閉じ込められていた。ルースはこの男たちの中に、ひょっとしたらデイジーの仲間がいて奪還するチャンスを狙っているのではないかと疑う。外の吹雪はますます激しくなり、一行は不安な夜を迎える。

 隔絶された空間で複数の人間が疑心暗鬼のまま内ゲバに走るという設定は、明らかに「レザボアドッグス」の二次使用である。しかも、緊張感はあの映画の足元にも及ばない。「レザボアドッグス」が100分の上映時間の中に剥き出しの暴力とパッションが凝縮されていたのに対し、本作は何と2時間48分の長尺。このネタで長大な上映時間を引っ張れるはずもなく、事実、最初の1時間は山もオチも無い退屈な寸劇を見せられているようで、眠気を催すばかり。



 ではドラマがようやく動く中盤以降はどうなのかというと、ただ血糊の多いだけのバイオレンス場面が何の工夫も無く並ぶだけである。それぞれのアクションシーンの間における演出リズムが平板であるため、盛り上がりはまるで感じられない。

 もちろん感情移入できるキャラクターは皆無で、果ては終盤近くに何の伏線も張らずに“思いがけない人物”が闖入してくる始末。これでは密室劇という設定そのものが瓦解してしまう。どうせなら、ラストは店を出て押し寄せる敵の一味を相手にハデにドンパチを展開した方が、まだ良かったかもしれない。

 映像面でも見るべきものはなく、「レザボアドッグス」のようなスタイリッシュな構図はまったくない。サミュエル・L・ジャクソンをはじめカート・ラッセル、ジェニファー・ジェイソン・リー、ティム・ロス、マイケル・マドセンと面構えの良いメンバーは集められているが、特に見せ場は与えられていない。印象に残ったのはエンニオ・モリコーネの大仰な音楽のみ。観る価値は無い。
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「レイジング・ケイン」

2016-03-12 06:36:17 | 映画の感想(ら行)

 (原題:RAISING CAIN)92年作品。結論から先に言ってしまうと“多重人格というテーマを取り上げた”という謳い文句だけで底が割れてしまうサスペンス映画である。最初の数分間で犯人がわかってしまうし、どういう盛り上げ方をして映画が進んで行くのかもバッチリ見通すことができるというような、まことに困ったシャシンなのだ。

 幼児期における体験と、複雑な精神構造の形成について研究している心理学者のカーターは、自分の子供を実験台にして観察を続けている。そんな彼のもとに、突然双子の兄ケインがあらわれる。そして時を同じくして、彼の周りで殺人事件が次々と起こっていく・・・・。

 監督はブライアン・デ・パルマで、ヒッチコックの影響多大な同監督であるから、テーマの“多重人格”は当然「サイコ」からのいただきで、車を沼に沈める有名なシーンの巧妙なパロディもあったりする。さらに、自分が過去に監督した作品からも大量にネタを引用している。「アンタッチャブル」(87年)の“階段落ち”をちょっとアレンジした“二階落ち”とか、「殺しのドレス」(80年)とよく似た不倫のシーン、「キャリー」(76年)のラストで使ったタイプのオチ、カメラの長回しを延々続けたり、映像のトリックで観客を引きずりまわしたり、果てはラストシーンで“これで終わりじゃないよ”式の処理を披露。全体的によくもまあこれだけ小手先のテクニックを集めたものだと感心してしまう。

 いろいろやってはいるが、アイデアは全部二番煎じだし、公開当時のキャッチフレーズだった“デ・パルマの集大成”という触れ込みは信用できず、むしろ、ネタにつまって今までの貯金をすべておろしてしまった印象が強い。主演のジョン・リスゴーは怪演で、アクの強さが全面展開。しかしながら、ロリータ・ダヴィドヴィッチやスティーヴン・バウアーといった脇のキャストが弱いので、リスゴーの孤軍奮闘といった感が強い。

 それにしても、音楽だけは素晴らしい。スコアを担当したのはデ・パルマ作品ではおなじみのピノ・ドナジオで、華麗なストリングスの響き、透明感あふれる調べは絶品だ。サントラ盤のみ要チェックの映画、ということになるだろうか。
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「女が眠る時」

2016-03-11 06:23:23 | 映画の感想(あ行)

 くだらない。存在価値無し。この作品を企画した人間、カネを集めたプロデューサー、全国拡大公開に踏み切った興行主、みんなまとめてゴミ箱に放り込んでやりたい。

 一週間の休暇を取って、妻とともに伊豆のリゾートホテルに宿泊している作家の健二は、以前は文壇から注目されていたが、今ではスランプに陥っていた。編集者の妻とは倦怠期で生活に張り合いが無く、物書きの道をあきらめてサラリーマンとして就職することも考えている。ある時、彼はプールサイドで異様なカップルを見かける。初老の男と若い女の二人連れだが、親子ではない。何やら訳ありの彼らに興味を覚えた健二は、ホテル内で二人を見かけるたびに後をつけ、部屋をのぞき見るようになっていく。やがて彼は、現実とも妄想ともつかない世界に足を踏み入れてゆく。

 スペインの有名作家であるハビエル・マリアスの短編(私は未読)の映画化だが、たぶん舞台がヨーロッパのリゾート地であったならば、それなりの雰囲気を醸し出していたのだろう。ところが本作に映し出されるのは、スタイリッシュなテイストには縁の無い下世話な観光地で、泊まっているホテルも高級感は希薄だ。こんなお膳立てで、(作者が狙ったであろう)洗練されたミステリアスさが現出できるわけがない。

 監督は「スモーク」などで知られる香港出身のウェイン・ワン監督だが、どうしてこの演出家がこの題材をこの舞台で撮ろうと思ったのか、全然理解できない。とにかく、セリフの内容と会話のリズムが不自然に過ぎる。おそらくは原作では含蓄のある物言いであったはずが、何も考えずに直訳したようなセリフの応酬で、観ていて面倒くさくなってくる。

 もちろん、エロティックさは皆無で、惹き付けられるようなエピソードも見当たらない。カメラワークも凡庸の極みで、美しい画面を作り上げようという意図すら感じられない。

 有り体に言ってしまえば、くだんのカップルに映画的興趣を盛り上げるようなバックグラウンドがあるわけでもなく、結果的に健二が触発される“何か”が提示されることもない。漫然と内容空疎な筋書き(らしきもの)がノロノロと展開し、漫然と登場人物は所在なく動き回り、漫然とした思わせぶりなエピソードが並べられ、漫然とした結末が、これまた漫然と据えられているという、話にならないシロモノなのだ。

 初老の男に扮するビートたけしをはじめ、健二役の西島秀俊、忽那汐里、リリー・フランキー、新井浩文とキャストの顔ぶれは悪くないが、演技らしい演技もさせてもらえず、さぞかしストレスの溜まる現場であったことが想像できる。加えて健二の妻を演じる小山田サユリが貧相なプロポーションを惜しげもなく(苦笑)晒してくれるので、観る側は盛り下がるばかりだ。
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「嵐が丘」

2016-03-07 06:24:46 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WUTHERING HEIGHTS)92年イギリス作品。 ヨークシャーの荒野を舞台に、愛と復讐を描いたエミリー・ブロンテのあまりにも有名な原作の、数多い映画化作品の一つ。「嵐が丘」といえば1939年に名匠ウィリアム・ワイラーがメガホンをとった傑作を思い出す映画ファンが多いと思うが、今回のこの作品はそれに及ばないまでも、かなり肉迫した力作になっており、見方によってはワイラー版をしのぐ部分さえある。

 ヒースが咲きほこるヨークシャーの丘に建つ、“嵐が丘”に住むアーンショ一家。ある日、父親が神からの授かりものだと言って連れてきた少年ヒースクリフが、娘キャシーとその兄ヒンドリーの運命を大きく変えてしまう。父親が死に、もともとヒースクリフを毛嫌いしていたヒンドリーが彼を下男扱いし始める。そのために寡黙で反抗的な青年に成長してしまったヒースクリフ。彼の心の拠りどころはキャシーただひとりだった。2人は強い信頼と、そして愛情で結ばれていたが、農場主、リントン兄妹との出会いがキャシーの心を変えてしまう。

 冒頭と最後にブロンテ自身を登場させて時間の流れを立体的に描き出した点にまず、ドキュメンタリー映画出身で、今回一般映画デビューとなるピーター・コズミンスキー監督の才気が感じられる(こういうやり方は時によってあざとく感じられるが、この映画は違和感がない)。撮影を担当したマイク・サウソンのカメラがとらえるヨークシャーの風景は、息を呑むほどに美しい。特に自然光の使い方には感心した。効果的に挿入されるSFXを含めて、映像の力を思い知らされる作品だ。そして坂本龍一の音楽は、「戦場のメリークリスマス」と並んで彼の代表作になることは確実だろう。流麗な旋律は観る者を恍惚とさせる。

 しかし何よりの勝因は、キャシー役にジュリエット・ビノシュを起用したことだろう。当時は若手女優の宝庫であったフランス映画界の中にあって、とりわけ存在感が光っていた彼女は、この映画のために英語の発声訓練を受け、イギリス文学史上最高のヒロインを熱演している。歴代のキャシー役の中で、一番魅力的じゃないかと思う。ヒースクリフ役のレイフ・ファインズのことなどすでに忘れてしまった(笑)。

 そしてこの映画が他の「嵐が丘」に比べて特筆される点が、ラストが違うことだ。ここでは明かせないが、それによって映画がすっきりとした明るさを持ったことは確かだろう
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「ディーパンの闘い」

2016-03-06 06:41:05 | 映画の感想(た行)

 (原題:DHEEPAN )第68回カンヌ国際映画祭で大賞を獲得した作品だが、そのアワードにふさわしい内容かどうかは別にしても、楽しめる映画であることは確かだ。少なくとも、同映画祭で本命視されたトッド・ヘインズ監督の「キャロル」よりは求心力が高く、見応えがある。

 主人公ディーパンはスリランカの反政府ゲリラのメンバーであったが、内戦で妻子と戦友を殺され、自分の身も危なくなる。フランスに脱出することを思い立った彼だが、出国する上で家族連れの方が何かと都合が良い。そこで行きずりの女と親を亡くした少女を自分の“家族”に見せかけ、難民審査を通り抜ける。フランスに到着した3人は、パリ郊外の集合住宅の一室に腰を落ち着け、ティーパンは団地の管理人の職を得る。しばらく一緒に暮らしていくうちに互いに情を通わせていく彼らだが、実はそのアパートは犯罪者の巣窟だった。家政婦として働くようになった“妻”の派遣先がギャングに襲われ、彼女もピンチに陥っていることを知ったディーパンは、再び戦いに身を投じていく。

 戦争帰りの男が義憤に駆られて悪者ども相手に大暴れをするという筋書きは、同じくカンヌでの大賞受賞作である「タクシードライバー」(76年)に通じるものがある。しかし、あの映画で主人公がニューヨークで“独りよがりな戦争”を勝手に始めたのは、ベトナム戦でPTSDを患ったからである。対して本作のディーパンには、戦わなければならない必然性があるのだ。

 いわば図式としては昔の任侠映画に近い。高倉健や鶴田浩二が演じた孤独な侠客が、敵のアジトに単身殴り込みをかけるのと同様、ディーパンの行動の裏にあるのは義理と人情、そして家族愛だ。本作ではそれに人種や宗教、移民問題に揺れるヨーロッパ社会が背景になる。社会派のテイストとヤクザ映画の分かりやすさを融合させ、幅広い層にアピールできる仕上がりだ。

 ジャック・オーディアール監督の作品は過去に「リード・マイ・リップス」(2001年)ぐらいしか観ていないが、ここでは登場人物の内面描写に卓越したものを見せる。戦いから足を洗って新たな生活を送るはずが、またしても社会の不条理により銃を手にせざるを得なくなるという、ディーパンのその苦悩が画面の隅々まで横溢する。かと思えば、彼の“妻”が団地の一室でドラッグ密売組織を束ねる青年と心を通わせるくだりでは、丁寧で情感に満ちたタッチで観る者を惹き付ける。

 主演のアントニーターサン・ジェスターサンは本物のスリランカ内戦の元兵士であり、まさに迫力が違う。“妻”と“娘”を演じる俳優も達者だし、“ダークサイド”のニコラス・ジャーによる音楽も抜群の効果を上げる。たとえ血が繋がっていなくても“家族”は形成され、人種・宗教が異なっても分かり合える。そんな作者の想いが伝わるようなラストの処理は心地よい。観て損は無い力作だ。
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「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」

2016-03-05 06:30:18 | 映画の感想(は行)
 (原題:Buena Vista Social Club )99年作品。公開当時には“こだわりの強い映画ファンや音楽ファン”(?)の間で話題になったドキュメンタリー作品で、私も(ミニシアターとはいえ)満員の劇場で鑑賞したことを覚えているが、印象は芳しくない。ただ、絶賛している向きもあったようなので、観客を選ぶ映画だというのは間違いないようだ。

 著名なギタリストのライ・クーダーが90年代半ばにキューバに旅行した際、地元の超ベテランのミュージシャン達とセッションを行ったことがきっかけとなり、97年にアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」をリリースする。キューバのミュージシャン達を同行したワールド・ツアーも組まれたが、この映画はその模様と参加メンバーの日常の活動を追っている。



 とにかく展開が退屈だ。監督はヴィム・ヴェンダースだが、80年代までは才気煥発だった彼もこの頃はすでに調子を落としていた。描写に力がなく、映像構成も平凡。映画として盛り上がるようなエピソードも組み込まれていない。とにかく、鑑賞中は眠気を抑えるのに必死だった。

 ところで、この映画を楽しんだ観客はキューバ製のポップスに慣れ親しんでいた層であったことは想像に難くないが、あいにく私はこの手のサウンドに興味はないし、ライ・クーダーの音楽の熱心な聴き手でもない。しかし“興味の持てない題材だから、映画としてもつまらない”という論法で片付けるわけにもいかない。たとえ門外漢の観客であっても、観ている間だけはその題材に引き付けてしまう力技を発揮するのが、映画作りの醍醐味というものだ。

 ところが、この映画はそのあたりの工夫が皆無である。要するに“キューバ製ポップスを紹介するだけで喜んでしまう観客”のみを念頭に作られており、幅広い層を対象にできるだけの訴求力を当初から埒外に置いている。これでは評価するわけにはいかない。

 なお、2015年に続編の製作が発表されている。すでに完成したのかどうかは分からないが、別の監督(「ヴィック・ムニーズ ごみアートの奇跡」のルーシー・ウォーカー)が担当しており、違うテイストの作品に仕上がると予想する。評判が良ければ観るかもしれない。
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「オデッセイ」

2016-03-04 06:28:22 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE MARTIAN )平凡な出来だとは思うが、最近のリドリー・スコットの監督作の中ではマシな方だ。少なくとも、同じ“宇宙もの”としては突っ込みどころが多すぎて閉口するしかなかった「ゼロ・グラビティ」とは違い、観ていてあまり腹も立たない(笑)。

 人類3度目の有人火星探査ミッションで、6人の隊員達は火星での作業中に大嵐に襲われ、撤退するハメになる。しかし、メンバーの一人であるマークは突風で吹き飛ばされた機材の直撃を受け、行方不明になってしまう。指揮官のメリッサをはじめとしてスタッフ達は必死の捜索を続けるが、マークを見つけることが出来ない。彼は死んだものと判断され、やむなく5人は火星を離れて地球への帰途につく。

 ところがマークは生きていた。次の探査ミッションのクルーが火星にやってくるのは(地球時間で)4年先だ。それまで何としても生き抜かなければならない。彼の厳しいサバイバル生活が始まる。一方、NASAもマークの生存に気付き、救援物資を送るための準備を始める。アンディ・ウィアーによるベストセラー小説(私は未読)の映画化だ。

 植物学者でもある主人公の特質を活かし、水と食料を確保するくだりは説得力がある。4年後のコンタクト地点に向かうための方法を模索するあたりも興味深い。だが、途中で発生する重大なトラブルの全容が掴めない。加えて、マークを救出する手段はいささか乱暴だ。もっと“現実感”のある展開を望みたいところ。

 マークのキャラクター設定は良く出来ているが、他の隊員達の存在感は希薄だ。そもそも隊長のメリッサからして、絵に描いたようなドライなキャリアウーマン風であるのには、いささかゲンナリした。NASAのスタッフに至っては、皆深刻そうな素振りは見せるものの、誰一人キャラが立っていない。責任者と現場のクルー、そしてアイデアを出してくるオタクっぽい野郎、皆“与えられた役どころを、取りあえずこなした”という程度の印象しか受けない。ここで主人公と拮抗するような登場人物を出していれば、かなりドラマも引き締まったはずだ。

 主演のマット・デイモンは熱演だが、脇にジェシカ・チャステインやジェフ・ダニエルズ、マイケル・ペーニャ、ケイト・マーラ、ショーン・ビーン、キウェテル・イジョフォーといった多彩な面子を配しているわりには印象が薄い。これは演出に粘りが足りないからだと思われる。

 それにしても、惹句に“70億人が、彼の還りを待っている”と謳っているわりには、主に映し出されるのはNASAと北京の宇宙開発セクションのみ。イギリスの様子がほんの少し紹介されるのを除けば、他の国々は地球上に存在しないかのような扱いだ。裏の事情とやらでそうなったのかもしれないが、随分と独善的な処置であり、観ていて脱力した。
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「私は二歳」

2016-03-01 06:29:53 | 映画の感想(わ行)
 昭和37年大映作品。原作は松田道雄による育児書だが、これを良く出来たホームコメディに仕立て上げた和田夏十の脚色と市川崑の演出に手腕に感服する一編。鑑賞後の満足感も高い。

 都内の団地に住む若夫婦、五郎と千代の間に一人息子の太郎が生まれる。両親は太郎を育てるのに毎日大わらわで、太郎が笑ったといっては喜び、歩いたといっては歓声をあげる。一方で、勝手に団地の階段を這い上がった太郎に肝を冷やす。ある日一家は事情により団地を出て、祖母の住む郊外の平屋に引っ越すことになる。当然のことながら、嫁と姑との間に太郎の育て方に関する確執が発生。さらには父の勤務先のゴタゴタや、それによる母親のいらつきも生じ、気の休まる日は無い。それでも太郎は大人達の言動をクールに見つめ、成長していく。



 育児書を元にしていながら、教条的な部分はほとんど見当たらない。子育ての苦労と、それに付随する幸福感。どんなに時代が移っても変わることがない普遍性を、的確にすくい取る。母親は弱音を吐き、父親はおっちょこちょい。祖母は頑固だ。しかし彼らは自分たちに与えられた環境の中で、精一杯に太郎に尽くそうとする。そんな底抜けの善意が横溢し、家族のあるべき姿をとらえる作者のポジティヴさが嬉しい。

 団地の佇まいや、古い平屋の造形は見事。特に団地の隣近所との関係性を、数人の住人を登場させただけで丸ごと描出してしまう展開は見事だ。時折挿入されるアニメーションも抜群の効果を上げている。

 船越英二と山本富士子、そして浦辺粂子という主要キャストのアンサンブルも見応えがある。山本と浦辺との丁々発止の掛け合い、それに右往左往するチャラい船越の存在感は、観ていて笑いながらも納得してしまう。また映画製作に当たっては森永乳業が協賛しており、劇中に森永牛乳が頻繁に登場。牛乳配達員がヒーロー的な活躍をする場面もあって、実に楽しい。

 なお、山本はこの作品の後、フリーを主張。大映の社長の永田雅一と対立して袂を分かち、それ以来活躍の場を舞台に移し、映画に出られなくなったのは残念だ。何とかまだ元気なうちに銀幕に復帰してほしいものである。
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