元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「幸福なラザロ」

2019-07-13 06:36:08 | 映画の感想(か行)

 (原題:LAZZARO FELICE)感想を書く際には、こういう映画が一番困る。何しろ、まるでピンと来ないのだ。面白かった、あるいは面白くなかったという印象さえ述べるのも憚られるような、自身のメンタリティの埒外にあるシャシンである。ただ、第71回カンヌ国際映画祭で脚本賞を獲得しているので、おそらく存在価値はあるのだろう。

 イタリアの山奥にあるインヴィオラータ村は、渓谷に囲まれ外の世界とは隔絶されていた。そこでは前近代的な農奴制が敷かれ、村人たちは領主であるデ・ルーナ侯爵夫人から搾取されていた。村の若者ラザロは人を疑うことを知らず、絵に描いたような善人だ。ある日、デ・ルーナ夫人の放蕩息子タンクレディが村を訪れる。彼はラザロと仲良くなり、退屈しのぎにデッチ上げた狂言誘拐に彼を引き入れる。ところが、急な発熱で足元が覚束なくなったラザロは崖から転落し、気を失ってしまう。彼が目覚めると、長い年月が経過しており、デ・ルーナ夫人の悪だくみが発覚して村人たちは全員村から出た後だった。

 ラザロが新約聖書の登場人物であることは知っているが、斯様に宗教ネタを突き詰めたような作劇では、こちらとしては正直“引く”しかない。映画の後半になると、村を離れて都会の住人になったかつての村人たちやタンクレディはそれなりに老けているのだが、ラザロは全く年を取っていない。それどころか、たびたび小さな“奇跡”を起こす。

 ラザロがスピリチュアルな存在であることは分かるのだが、一体何のメタファーになっているのか判然としない。かと思えばラストは意味不明のトラブルによって“退場”してしまう。宗教に詳しい観客にとっては腑に落ちる展開なのかもしれないが、門外漢の私にとっては最後まで“関係のない映画”であった。

 興味を惹かれる箇所をあえて挙げると、封建的な村から抜け出して自由になったはずの住民たちが、都会では社会の底辺で燻っているという点だ。結局、抑圧的な環境から逃れても、得られたのは“貧乏になる自由”だけだったわけで、皮肉な結果にタメ息が出る。

 アリーチェ・ロルヴァケルの演出は、上手いのか下手なのかよく分からない。ラザロ役のアドリアーノ・タルディオロは(宗教ネタにふさわしい神々しさこそないが)妙な存在感はある。あとどうでもいいことだが、村人たちが乗っているトラックが、見たことも無い三輪車であったのが少し印象的だった。
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「ふたりでスロー・ダンスを」

2019-07-12 06:33:05 | 映画の感想(は行)
 (原題:Slow Dancing in The Big City)78年作品。ジョン・G・アヴィルドセン監督といえば「ロッキー」と「ベスト・キッド」のシリーズで有名になり、スポ根映画専門の演出家みたいな印象があるが、本作のようなロマンティックなラブストーリーも手掛けている。しかも出来は良い。知る人ぞ知る佳作だと思う。

 ニューヨークの新聞社でコラム欄を担当している中年記者のルーは、社会の底辺で生きる人々に密着しサポートする人間味あふれるジャーナリストでもあった。ある日、彼が住むアパートにサラという若い女が引っ越してきた。彼女はバレエ・ダンサーで、愛人の実業家と別れたばかり。ルーは小さなトラブルによってサラと知り合うが、たちまち恋に落ちてしまう。



 サラの方も満更でもない様子で2人は距離を縮めるが、実は彼女は原因不明の下肢の痛みに悩んでいた。ダンスのパートナーであるロジャーの勧めによって医者に診てもらうが、これ以上ダンスを続けられる状態ではないことが分かり、愕然となる。それでもルーに励まされ、サラはリンカーン・センターでの最後のステージに立つ。

 主人公2人の馴れ初めと恋の進展の度合いは、余計なケレンがまったく無く、実にスムーズで情感豊かだ。特にアパートの屋上でスロー・ダンスに身をゆだねる場面は、思わず見入ってしまうほど素晴らしい。また、サブ・プロットとしてルーが面倒を見るハーレムに住む少年のエピソードが描かれるが、これが冷徹なリアリズムで身を切られる思いがする。「ロッキー」の一作目(76年)では貧しい地域に住む者達の哀歓を描いたことが評価されたが、本作でもそのテイストは踏襲されている。

 サラが属する舞踊団はモダン・バレエが専門で、映画では頻繁に取り上げられるクラシック・バレエとは異なる、スタイリッシュな魅力が満載だ。サラを演じるアン・ディッチバーンのパフォーマンスはなかなか見せる。ルー役のポール・ソルヴィノもとても良い味を出しており、アニタ・ダングラーやヘクター・ジェイミー・マーケイドといった脇の面子も万全。音楽は「ロッキー」と同じくビル・コンティが担当しているが、本作では流麗なスコアを披露している。
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「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」

2019-07-08 06:30:28 | 映画の感想(か行)

 (原題:GODZILLA:KING OF THE MONSTERS )お馴染みの怪獣たちが取っ組み合いをすること自体に価値を見出す観客(実は、私もその一人だ ^^;)ならば楽しめるだろう。当然、それ以外の者はお呼びではない。米国における興収がアメコミの映画化作品よりも低調であるのも、それと無関係ではあるまい。

 ゴジラとムートーの戦いから5年が経ち、以前から怪獣の調査を行ってきた秘密機関“モナーク”は政府や国連から怪獣をコントロールできなかったことに関して激しい追及を受けていた。それでも“モナーク”は世界各地に眠る怪獣の監視を続けていたが、その中の一つである中国の雲南省にある基地の地下では、モスラの幼虫が孵化していた。そこへ環境テロリストのアラン・ジョナ率いるテロ部隊が基地に乱入。エマ・ラッセル博士と娘のマディソンを拉致し、怪獣と交信する装置“オルカ”も強奪されてしまう。

 ジョナの狙いは“オルカ”を使って南極に眠る“モンスター・ゼロ”ことキングギドラをよみがえらせることだ。“モナーク”の幹部である芹沢猪四郎博士は、エマの夫で科学者のマークに協力を要請するが、その間にキングギドラは覚醒。かつてギドラと覇を争ったゴジラが戦いを挑む。さらには、メキシコの火山島ではラドンが出現。こうして怪獣バトル・ロワイアルがワールドワイドに展開する。

 バトル場面が夜間中心であるのは不満だが、それでも往年の東宝の怪獣オールスターズが画面狭しと暴れ回るのは壮観だ。何よりかつての「ゴジラVSキングギドラ」(91年)みたいにギドラ氏が放射能を浴びた小動物の化身ではなく、ちゃんと“宇宙からの侵略者”という設定に戻っているのが嬉しい。

 しかし、人間側のドラマはあまりにもお粗末だ。ジョナの目的はハッキリとせず、エマが敵に寝返った理由も分からない。芹沢博士の言動は元祖「ゴジラ」(1954年)を下敷きにしているとはいえ、結局は不自然に終わる。極めつけは最後のボストンでの戦いのシーンで、マークとエマそしてマディソンの一家の行動は支離滅裂。事態をややこしくするだけだ。

 マイケル・ドハティの演出は深みは無いがテンポがある。カイル・チャンドラーにヴェラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、渡辺謙、チャン・ツィイーといったキャストもまあ良いだろう。もちろん続編は作られるのだが、困ったのは四大怪獣以外の面々の造型がイマイチなこと。またムートー(前作とは別個体)なんか出すよりも、昔の東宝怪獣映画からもっとキャラクターを“引用”してほしいものだ。

 とはいえ、伊福部昭による“ゴジラのテーマ”はフィーチャーされるし、古関裕而作曲の“モスラの歌”も流れるし、ブルー・オイスター・カルトの“ゴジラ”も鳴り響く。その点は良かった。
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アナログレコードの優秀録音盤(その7)。

2019-07-07 06:24:32 | 音楽ネタ
 ヴァイオリン2台のデュオ曲ばかりを集めたディスクというのも珍しいが、これは曲・演奏とも申し分なく、中身が濃い。演奏者はアルゼンチン出身のルイス・ミカルとマルタ・カルフィで、2人で“ミュンヘン・ヴァイオリン・デュオ”というユニットを組んでいたこともあるという。85年の録音で、レーベルはドイツのCALIGだ。



 曲目はヴィエニアウスキのエチュード/カプリース、ボッケリーニの二重奏曲、ジャルディーニのソナタ等、一般には馴染みのないものばかり。しかしながら、どれもびっくりするような名曲ではないものの、いずれも肌触りが良く聴きやすい。2人のテクニックは確かなもので、アキュレートでありながら、音色の明るさと何とも言えないロマンティシズムを醸し出していて感心する。

 そしてこのレコードの一番のセールスポイントは、録音だ。かなりマイクとの距離が短い。ならばキツくて鋭いサウンドになっているのかと思うが、鮮明ではあるが決して聴き辛くない。2台のヴァイオリンは銘柄や製作年度も異なると思われるのだが、それぞれの音色の違いがシッカリ出ているのも高ポイントだ。



 次に紹介するのは、エリザベート=クロード・ジャケ・デ・ラ・ゲールという女流作曲家のチェンバロ曲集だ。その名はこのディスクを聴くまで知らなかったが、17世紀後半から18世紀初頭にかけて活動していたフランスの作曲家で、このレコードは初期の作品が収められている。演奏者はアイルランド出身の女流エマー・バックリー。82年の録音でレーベルは仏ハルモニアムンディである。

 曲自体はどれもメランコリックで仄暗く、気軽に聴き流せるものではない。しかし決して厳格では無く、旋律は優美だ。バックリーの演奏は技巧を強調せずにスムーズに弾き切っている。押しの強さが感じられないのも、曲の雰囲気に合致していると思う。なお、この曲集は世界初録音だということだ。

 録音場所はフランス西部のソーヴァン城。それほど広いホールではないと想像するが、音場感は出ている。特に優秀なのが低音で、演奏ノイズも含めた臨場感豊かな展開である。高域もキンキンせずにまろやかだ。このレーベルはレコードジャケットの美しさには定評があるが、このディスクのパッケージも実にキレイで、壁に飾っておきたいほどだ。



 サイモン&ガーファンクルの「セントラル・パーク・コンサート」(二枚組)といえば、1981年9月19日にこの有名ユニットが一時的に再結成してセントラル・パークでコンサートをおこなった際のライブ盤で、全世界でアルバム・チャートの上位にランクされた。収録曲についてもコメントする必要が無いほどお馴染みのものばかりだ。

 このディスクが自室のレコード棚に収まっている。別に優秀録音盤でもないが、手に入れた経緯が面白いので、ちょっと言及しておきたい。実はこれ、某電器店で初めてCDプレーヤーを購入したときに、オマケとしてもらったもの(笑)。

 CDプレーヤーを買ったらLPレコードが付いてくるという、何とも玄妙な事態になったのだが、当時(80年代半ば)はCDが完全に市民権を得ておらず、まだ好事家のアイテムに過ぎなかったのだ。新種のコンポーネントであるCDプレーヤーを何とか売ろうと、メーカーもショップもプッシュしていたことは想像に難くない。この“レコードのオマケ”も、その形振り構わぬマーケティングの賜物だったのだろう。ちなみに、そのときに購入したプレーヤーはONKYO製で、それから長らく愛用していた。
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「主戦場」

2019-07-06 06:30:23 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SHUSENJO:THE MAIN BATTLEGROUND OF THE COMFORT WOMEN ISSUE )つまらない映画だ。断っておくが、本作が左派のプロパガンダ映画だからケシカラン!・・・・などというイデオロギー的な視点で批判しているわけでは断じてない。作者のスタンスが右だろうが左だろうが斜め上だろうが(笑)、そんなことはどうでもいいい。要は映画として面白いかどうかだ。その点では本作はまったく評価できない。とにかく出来が悪すぎる。

 日本と韓国の間でいまだに燻っている従軍慰安婦問題を扱ったドキュメンタリーで、映画の前半は左右それぞれの識者のコメントが要領良く並べられている(ように見える)。ところが中盤あたりから話が慰安婦像の設置をめぐる関係者同士の確執に推移し、果ては日本の政治家の靖国参拝とか、天皇の戦争責任とか、南京事件とか、日本会議がどうしたとか、肝心の慰安婦問題とは直接関係のないモチーフの羅列に終始する。

 つまりは映画として主題の絞り込みが成されておらず、総花的な作者自身の“つぶやき”が全面展開されるだけなのだ。最後に取って付けたように元慰安婦のコメントが流されるが、時すでに遅しである。

 そもそも、前半の論客たちの意見の応酬に関しても、最初に右派のコメントが流され、次に左派の言い分が挿入されるが、それに対する右派の再反論は無い。要するに当初から左派の主張が正しいものとして製作されているわけだが、問題はそのことが観る側に“見透かされている”ことである。ネタの割れた映画ほど面白くないものはないのだ。

 さらには自身の言い分を無理矢理押し切るほどの映画的手法も不在。我々が知らなかったような“新たな事実”の提示もされていない。いくらドキュメンタリーとはいえ、カネ取って劇場公開する以上、エンタテインメント性に乏しければ何もならない。シュプレヒコールの連呼がしたいのならば、ヨソでやってくれと言うしかない。

 また“日本会議は神道系で、それが政府とつるんでいるから問題だ”とか“日本会議は大日本帝国憲法の復活を企んでいる”とかいう、明らかな事実誤認と思われる箇所があるのも愉快になれない。監督は米国のミキ・デザキなる人物(なぜか日系)だが、映画作家としての腕前は無いと言わざるを得ない。

 なお、私個人としては慰安婦問題に関しては“当時の日本政府及び軍当局が、慰安婦を強制徴用した事実も証拠も存在しない”という一点をもって話は終わりにしなければならないと思う。人権問題と政治問題を混同したような形でいたずらに引きずっても、徒労に終わるだけだ。
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「恋に落ちたら・・・」

2019-07-05 06:30:50 | 映画の感想(か行)
 (原題:MAD DOG AND GLORY )93年作品。ジョン・マクノートン監督はそれまで「ヘンリー」(86年)や「ボディ・チェンジャー」(91年)といった刺激の強いB級ホラー・サスペンスを手掛けていたが、本作ではなぜかスタイリッシュに仕上げられたラブコメという娯楽王道路線にシフトしている。よくある“突出した個性を持っていた作家が、ハリウッド・メジャー作品を撮った途端にフツーの監督に変貌する”というパターンのように見えるが、実はそうでもないところが興味深い。

 シカゴ市警の刑事ウェイン・ドビーは、勤務後に近くのスーパーで強盗事件に遭遇するが、見事に解決する。救出された人質の男マイロは、偶然にもマフィアのボスだった。感激したマイロはドビーに礼を述べると共に、若い情婦のグローリーを一週間トビーに“レンタル”すると申し出る。戸惑うトビーだが、対面したグローリーに惚れてしまい、彼女の方も彼に好意を持つ。一週間はあっという間に過ぎ、ドビーのところへマイロがグローリーを“回収”するためにやって来るが、ドビーは頑として断る。それでは面子が立たないマイロは、ドビーとの“決闘”に臨むのであった。



 臆病で慎重なことから、皮肉をこめて狂犬というあだ名で呼ばれていたドビーが、グローリーとの出会いで現実に立ち向かっていく様子は、「ヘンリー」の主人公とヒロインの関係に通じるところがある。また「ボディ・チェンジャー」のエイリアンが凶悪犯と接触したことをきっかけで、本来の姿に目覚めたように、本作では図らずもヤクザの親分とやり合うハメになったドビーが、本当は向こう見ずな熱血漢であったことを自覚する。つまりは従来のマイナーな作品と同じモチーフを、違うジャンルで巧みにキープし続けているという見方も出来るのだ。

 ドビー役のロバート・デ・ニーロとグローリーに扮するユマ・サーマン、そしてマイロを演じるビル・マーレイのコンビネーションは万全で、特にマーレイのコメディ的な持ち味とマクノートンのスムーズな演出も相まって、ラブコメとしての体裁は十分整えられている。撮影のロビー・ミュラーと音楽のエルマー・バーンスタインの仕事ぶりも申し分なく、気の利いたラストと共に、鑑賞後の印象は良好だ。
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「さよならくちびる」

2019-07-01 06:29:52 | 映画の感想(さ行)

 良い映画だ。誰しも若い頃に抱いていた悩みや苦しみ、将来への不安、そして微かな希望etc.そんな哀歓が全編を覆い、切なくも甘酸っぱい気分になる。そして登場人物達は複雑な内面を音楽に乗せ、聴衆に訴える。鑑賞後の印象も格別の、青春映画の佳編である。

 久澄春子(通称ハル)がバイト先のクリーニング工場で声を掛けたのは、上司に叱られて不貞腐れていた同僚の西野玲緒(通称レオ)だった。ハルはレオに一緒に音楽をやろうと持ちかけ、フォーク・デュオ“ハルレオ”を結成する。路上ライブから始めた2人だが、次第に人気が出てくる。ハルレオはライブツアーに出るためローディを探すが、そこで名乗りを上げたのが、元ホストの志摩一郎(通称シマ)であった。ツアーは当初は順調で売り上げはアップする一方だったが、やがて3人の音楽に対する微妙なスタンスの違いが表面化。やがて関係がこじれて解散を決意し、結成から数年目で最後のツアーに出発することになる。

 30年ほど昔ならば、少しばかり逆境にあっても楽天的な気分で乗り切れたが、今では若者を取り巻く状況は厳しい。格差は広がり、しかも固定化してしまう。人付き合いの苦手なハルとレオも、鬱屈した心情を押し殺したまま退屈なバイトに明け暮れるしかなかった。

 しかし、彼女達は音楽に出会えた。音楽によって社会との接点が出来て、大きく視野が広がった。ただしそれは、以前は漠然としていた屈託が明確化することを意味している。ハルが引きずっていた“秘密”も、レオが抱えるコンプレックスも、シマが封印してきたはずの“過去”も、生々しく頭をもたげてくる。登場人物達はそれらにどう対峙するのか、どうやって折り合いを付けるのか、そのプロセスをやはり音楽を通して描くというアイデアは出色だ。

 塩田明彦の演出は余計なケレンを廃し、じっくりと彼らの懊悩と成長を追っていく。彼にとっても初期の「どこまでもいこう」(99年)と並ぶ代表作になることは間違いない。主演の門脇麦と小松菜奈のパフォーマンスは万全で、演技力は門脇の方が上ながら、無手勝流の存在感を活かした小松も健闘しており、絶妙のコンピネーションを見せている。シマに扮する成田凌も、この若さですでに名バイプレーヤーとしての貫禄さえ感じさせる。

 そして何より、ハルレオの歌と演奏が素晴らしい。とびきり上手いというわけではないが、門脇と小松のひたむきさも相まって、目を見張る求心力がある。秦基博とあいみょんが提供した楽曲も文句なしだ。3人以外のキャラクターはあまりクローズアップされていないが、その中にあってハルレオの“追っかけ”の女子高生を演じた日高麻鈴と新谷ゆづみが儲け役だった。
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