(原題:LAZZARO FELICE)感想を書く際には、こういう映画が一番困る。何しろ、まるでピンと来ないのだ。面白かった、あるいは面白くなかったという印象さえ述べるのも憚られるような、自身のメンタリティの埒外にあるシャシンである。ただ、第71回カンヌ国際映画祭で脚本賞を獲得しているので、おそらく存在価値はあるのだろう。
イタリアの山奥にあるインヴィオラータ村は、渓谷に囲まれ外の世界とは隔絶されていた。そこでは前近代的な農奴制が敷かれ、村人たちは領主であるデ・ルーナ侯爵夫人から搾取されていた。村の若者ラザロは人を疑うことを知らず、絵に描いたような善人だ。ある日、デ・ルーナ夫人の放蕩息子タンクレディが村を訪れる。彼はラザロと仲良くなり、退屈しのぎにデッチ上げた狂言誘拐に彼を引き入れる。ところが、急な発熱で足元が覚束なくなったラザロは崖から転落し、気を失ってしまう。彼が目覚めると、長い年月が経過しており、デ・ルーナ夫人の悪だくみが発覚して村人たちは全員村から出た後だった。
ラザロが新約聖書の登場人物であることは知っているが、斯様に宗教ネタを突き詰めたような作劇では、こちらとしては正直“引く”しかない。映画の後半になると、村を離れて都会の住人になったかつての村人たちやタンクレディはそれなりに老けているのだが、ラザロは全く年を取っていない。それどころか、たびたび小さな“奇跡”を起こす。
ラザロがスピリチュアルな存在であることは分かるのだが、一体何のメタファーになっているのか判然としない。かと思えばラストは意味不明のトラブルによって“退場”してしまう。宗教に詳しい観客にとっては腑に落ちる展開なのかもしれないが、門外漢の私にとっては最後まで“関係のない映画”であった。
興味を惹かれる箇所をあえて挙げると、封建的な村から抜け出して自由になったはずの住民たちが、都会では社会の底辺で燻っているという点だ。結局、抑圧的な環境から逃れても、得られたのは“貧乏になる自由”だけだったわけで、皮肉な結果にタメ息が出る。
アリーチェ・ロルヴァケルの演出は、上手いのか下手なのかよく分からない。ラザロ役のアドリアーノ・タルディオロは(宗教ネタにふさわしい神々しさこそないが)妙な存在感はある。あとどうでもいいことだが、村人たちが乗っているトラックが、見たことも無い三輪車であったのが少し印象的だった。